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人間の集団について ベトナムから考える

司馬遼太郎 『人間の集団について ベトナムから考える』 中公文庫

(58ページ)
 近代以前において、アジアで王朝国家をつくる形式は、二種類あった。 ひとつは中国式で、ひとつはインド式である。
 どちらも、日本の鎌倉以後の歴史にみられるような多分に競争をたてまえとする社会ではなく、社会を停頓させることによって安定を図ろうとするやりかたである。
 インド式国家が永く安定しえたのは、民衆のインド指揮諦観の思想の上に王朝が薄べりのように軽くひっそりと乗っかったところにあるらしい。 さらには、インドの身分制(カースト)をまねた制度をつくって民衆を分断したことも、秩序の維持に役立った。

(125ページ)
「華僑は、ベトナム人をばかにするんですよ」
 という話はしばしばきいた。
 知能程度がちがう、と神秘的人種論を信じている華僑もいる。 人間の能力はそれが属している社会の質に影響されるもので、たとえば商業算術的頭脳があるということも、それに習熟した社会で育つと自然と身につく。 それだけのことである。

(154ページ) 利口か馬鹿かの世界
 ベトナム人は、他民族に対する優越感情がつよい。
「われわれベトナム人は他民族にくらべてクレヴァー(利口)である」
 ということをよくいう。

(155ページ) 「れわれをタイ人と一緒にしてもらってはこまる」
「カンボジア人はバカ゛し、ラオス人にいたっては考えられぬほどバカだ」

(157ページ)
クレヴァーというのは、手先が器用、とか、如歳がない、という意味が入っていて、人間としてかならずしも結構なほめ言葉ではないのだが、そういう意味からすれば、カンボジア人やラオス人はクレヴァーでない面もあるかもしれないが、おそらくこの集団が持った文明の型によるものであろう。
 カンボジア人とラオス人は、伝統的にインド文明を受容してきた。千年以上、中国文明を受容してきたベトナム人とは、物事に対処するときの精神や肉体の身動きがちか゜うのである。ごく概念的にいえば、瞑想的なインド思想から利口で器用だという面での人間の性能はひき出されにくく、一方、非瞑想的で現実を重んずる中国文明からは、そういう能力が比較的ひき出されやすい。そういうちがいだけのことを、ともすれば神秘的民族能力論に根拠が置かれがちなのだが、要するに文明と文化の環境のちがいが、人間の集団の構成者を、クレヴァーにしたり、比較的クレヴァーでなくしたりするだけのことのように思う。さらにいえば、小乗仏教で人間がつくられているカンボジアやラオスにあっては、クレヴァーであることが人間の価値判定の基準であるとはおもっていないかもしれない。

(157ページ)
 クレヴァーが結構であるとすれば、南ベトナムにあっては華僑が最優秀であることになる。げんに経済をにぎっているし、またカンボジアやラオスでも、たとえばさきの建築の例でいうとすれば、カンボジア人、ラオス人がカンナ削りで、ベトナム人が家を建てる大工で、その請負仕事を総まとめしているのが華僑であるという図式的な例が多いそうである。
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