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陳舜臣先生の 「円明園炎上」

 陳舜臣先生の 『中国の歴史』(平凡社)[第13巻 斜陽と黎明]に「円明園炎上」というタイトルの章があります。陳舜臣先生は 220ページから 241ページまでのこの章を書かれたとき、おそらく何度か涙を流されたのではないでしょうか。しばらく筆をおいては感情が静まるのを待ち、そしてまた書き始める……。
 陳舜臣先生の文章はここでもとても穏やかですが、華人のDNAを持つ私は行間から陳舜臣先生の悲しみと嘆き、そして涙を感じずにはおれません。。。

 「円明園炎上」の書き出しです。

<220ページ>
 太平天国戦争の最中におこったアロー号事件を、中国では第二次アヘン戦争と呼んでいます。列強が十五年前のアヘン戦争の成果を満たすためにおこした戦いであり、アヘン密輸船臨検からおこった問題なので、第二次あるいは続アヘン戦争と呼ぶほうが適当でしょう。



<222ページ>
 この事件が、英仏連合軍の清国遠征をひきおこすきっかけでした。じつは諸外国は、もういちじ清国を叩いて、もっと有利な条約を結ぼうと意図していたのです。アロー号事件がおこらなくても、ほかの問題がきっかけとなって、おなじような戦争がおこったと考えてよいでしょう。



1842年 南京条約調印<アヘン戦争終る>
1851年 太平天国を建国。洪秀全天王と称し、五王を封ず。
1856年 アロー号事件起る。
1857年 英仏連合軍、広州に侵攻、占領。
1858年 連合軍、天津に侵攻。ロシアとアイグン(愛琿)条約を調印。イギリス、フランス、アメリカ、ロシアと天津条約調印。
1860年 咸豊帝、熱河に逃避。英仏連合軍、円明園を焼き払う。イギリス、アメリカ、フランス、ロシアと北京条約調印。 【日本】桜田門外の変(大老井伊直弼暗殺)

<229ページ>
 この天津条約の第五項は、事務的なものとして見すごされやすいのですが、税率表改正には重要な意味があるのです。それは税率表のなかに、これまでなかった「洋薬(ようやく)」という品名が加えられることになりました。洋薬とは読んで字のごとく西洋の薬ですが、じつはアヘンをおもに指したものです。
 天津条約がアヘンを公認する目的をもっていたことは、忘れてはなりません。



<236ページ>
 咸豊帝(かんぽうてい)が后妃(こうひ)と側近を伴って、熱河にむかって逃げたのは九月二十二日のことで、英仏連合軍が北京の安定門を占領したのは十月十三日のことでした。
 その前に――十月六日から十日にかけて、英仏連合軍による円明園(えんめいえん)の大略奪と放火がおこなわれています。

 円明園は北京城外北西十キロほどのところにあった離宮であります。雍正帝(ようせいてい)が皇子時代に、父の康熙帝(こうきてい)から下賜(かし)された廃園に、庭園を造営したものです。乾隆(けんりゅう)年間には、長春園(ちょうしゅんえん)と綺春園(きしゅんえん)〔のちに万春園(ばんしゅんえん)と改名〕が造営されました。円明園はこの三園の総称にもなっています。本来の円明園だけで、東西一・六キロ、南北一・三キロありました。長春園には異国趣味がありウイグル族の女性を愛したりした乾隆帝が、ベルサイユ宮殿を模したヨーロッパふうの海晏堂(かいあんどう)という建物をつくり、噴水をつくったりしていたのです。

 乾隆以後の皇帝は、紫禁城を公式の場所として、円明園を私生活をたのしむ場所としました。北京からきわめて近いので、往復にも便利だったのです。ここには皇帝のコレクションがおさめられていました。書画骨董、貴重な善本、金銀財宝などです。おそらくここは当時としては、世界最大の美術館であり、また図書館でもあったでしょう。ただ一般には公開されていなかったのです。




[圆明园_百度百科
那侵略者不仅抢夺了那珍贵的历史文物,而且毫不留情地把它化成灰烬。占地350公顷(5200余亩),其中水面面积约140公顷(2100亩),圆明园的陆上建筑面积比故宫还多一万平方米,水域面积又等于一个颐和园,总面积竟等于8.5个紫禁城!

<237ページ>
 英仏連合軍はその円明園を徹底的に略奪しました。一物ものこさずに、うごかせないものはたたきつぶしたのです。現存すれば世界の宝といわれるような陶磁器が、大きすぎてはこべないという理由だけで、粉々に砕(くだ)かれてしまいました。この大略奪の主役は、文化の国と誇るフランスの軍隊だったのです。イギリス軍は一部の将校が略奪に参加できただけでした。イギリスのグラント将軍は、将校の略奪物を競売に付して、その売上金を公平に分配することにしたのです。
 英仏連合軍はこの大略奪に、無我夢中になってしまいました。一朝にして百万長者となったのです。連合軍の北京入城が遅れたのは、略奪に忙しかったからでした。宝の山を前にして、入城どころではありません。ことに十月七日は日曜日でしたから、将兵たちは朝から晩まで、狂ったように宝集めをやったといわれています。



 イギリスとフランスはどうしてこんなに野蛮で醜い行為を行ったのでしょうか?
 陳舜臣先生はその答えを次のように書かれています。

<237ページ>
 (広州駐在イギリス領事の)パークスは通州から帰る途中、交渉決裂による開戦となったで、戦争捕虜となりました。北京は近代国際法を知らないので、パークスたちを人質にして、取引をしようという考えもあったようです。連合軍はパークスを引き渡さなければ、北京城を破壊すると脅迫し、清朝側は北京城を破壊するならパークスを殺すと、反対に脅していました。けっきょく、パークスは釈放されましたが、同時に捕虜となった連合軍将兵のなかに、二十名の死者が出ています。
 英仏連合軍は、上陸以来、各地で略奪、殺人、放火、強姦などの蛮行をしていますが、自分たちの捕虜の死は野蛮な虐待によるものだとして、その報復をおこないました。
 報復とは円明園を焼くことでした。イギリス全権エルギンがそれをきめたのです。エルギンはラッセル卿あての報告のなかで、

 ――これは比較的無辜(むこ)の人民に影響がなく、直接責任のある皇帝にのみ加えられる懲罰であります。
 ……
 と書いています。



 上記の続きです。

<238ページ>
 円明園の放火は、その大略奪のあとをかくすためだったのが真相でしょう。フランスは略奪の主役でしたが、放火には参加しなかったようです。円明園は三日にわたって燃えつづけました。



<239ページ>
 このような事件を背景に、ロシアのイグナーチェフ公使の調停によって、「北京条約」が締結されました。



<240ページ> 
 没収されたカトリック教会の返還も記載されましたが、北京条約の翻訳にあたっていたフランス人神父のデラメアという者が、フランス文のなかになかったのに、宣教師の田地租借購入、建築が承認されるという一項を中国文のなかにもぐりこませました。条約はフランス文をもって正文とする規定なので、本来ならこれは無効なのに、清朝は無効を主張しませんでした。中国人はカトリックの神父がかならずしも公正でないことを、この事実によっておしえられたのです。



<241ページ>
 アロー号事件に端を発した戦争は、さまざまな波紋を投げかけましたが、前述したように、「税率表改正」という項にかくれて、アヘン貿易が公認されたことは、もっとも注意すべきことでしょう。まさしく第二次アヘン戦争にほかなりません。


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