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李清照 「金石錄後序」 

  金石錄後序  李清照


『金石録後序』は、趙明誠が編纂した『金石録』のあとがきとして、夫の明誠が亡くなったあと、夫の代わりに出版した李清照が、亡夫と過ごした楽しい日々とその後の苦難を回想して書いたものです。趙明誠は、宋の官吏であり、この時代から始まった「金石学」という学問の研究者でした。妻である李清照も教養高く、夫とともに蒐集研究に打ち込んでいました。

 ここには、先ず、結婚して書画金石の蒐集に励む、ほほえましくも甘美な二人の新婚生活の様子が愛おしげに語られています。以来、二人は終始書画金石の蒐集整理に精励してきました。そうしてこのことにすべての精力を費やすことに歓喜と幸福を覚えていました。それは「聲色狗馬」に上回る快楽だったといいます。この後彼女の運命は波乱を向かえるのですが、この長くは続かなかった幸福な時期があってこそ、彼女の悲しみを含む詞は深みを持つのだと思います。

 やがて、この幸福な家庭生活は時代の奔流にあっけなく潰え去っゆきます。二人を襲った運命が如何にその幸福を打ち崩していったかが、克明に記録されています。その経緯が、この文章の丁度半分にあたる分量になるのですが、「後書き」という枠を越えて記されています。そこには、これまで心血を注いで集めた膨大な蒐集物を1127年から1132年の間に次々と失っていく様子が、息もつかせぬ筆致で記されています。幸福な生活が、政乱戦乱のなか、悲惨に破滅していく描写は、戦記物の戦を描く筆致に似て冷徹な目と激情とが一体になった名文です。


 このページは、「金石録後序」の「口語訳」と「原文」と「李清照略年表・エピソード」からなります。


[口語訳]
  《金石録》後序  李清照

右の『金石録』三十巻とは何かと申しますと、趙徳甫【趙明誠】の書き表したものでございます。夏・商・周の三代より後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五季迄の、鐘、鼎、甗、鬲、盤、匜、尊、敦の款識、豐碑大喝、顯人晦士の事蹟を取り上げております。凡そ金石刻の二千卷を見ることになります。皆これらは誤りを正し、善し悪しを取捨選択し、聖人の道に適うものより、歴史家の誤りを正すに足るものまで、これら全てを実に多く掲載しております。
 ああ、王播より元載の禍は、書畫と胡椒との差別はありません。長輿と元凱の病も金銭への執着と伝承への執着に何ぞ殊なりましょうか。名は違ってもその惑いは同じものです。古物蒐集とはなんと失われやすい空しい営みではありましたでしょう。


私は建中靖国元年(1101年)に趙【明誠】のもとに嫁ぎました。その時先君は礼部員外郎、丞相は吏部侍郎でございました。この時、夫趙明誠は二十一歳、太学の学生でございました。(私は十八歳、夫はすでに金石学で名を知られておりました。明誠の父趙挺之はこの翌年に宰相になりました)
 趙と李の家はそれぞれ名族でもなく、もともとつつましい生活をしておりました。私たちは毎月陰暦の1日と15日の休暇にいつも衣類を質に入れて五百文の銭を持って相国寺にゆき,開かれている市の碑文と果物を買ったものです。帰ると、二人で向かいあって碑文を鑑賞しながら果物を食べました。「まるで昔の葛天氏(古代の帝王)の頃のつつましく平和に暮らしていた民びとのようです」と語りあったりいたしました。


(☆義父・趙挺之は僅かの間だが宰相になりました。ただし、実権は蔡京にありました。新法派として旧法派の弾圧に力を注ぎました。私(李清照)の父李格非は旧法派に属していました。趙氏に嫁いだとき父は礼部員外郎でございます。夫の父趙挺之は吏部侍郎(次官)でございました。私(李清照)はこの旧法派と新法派の争いにまきこまれることになってしまったのでした。又この争いは、その繰り返しによって、宋の力を弱めていったのです。
そうした結果、やがて1127年(建炎1)に北宋は終りを迎えることとなります。)


結婚して、二年後、夫は出仕いたしました(1103年。科挙には合格しませんでしたが、高官の子弟という特権で出仕いたしました)。そこで、食事も着るものも切りつめて、遠方絶域を極めて、天下の古文奇字を集め尽くそうと志を立てました。
 月日を過ごすうちに着実に進捗して,それらは次第に増えていきました。丞相は中央政府に居られましたし(当時、義父の趙挺之は新法派で、次官ですが大臣がいないため、事実上の大臣でしたし、僅かの間ですが宰相でございました)、親戚旧友には帝室図書館に勤務するものもおりましたから、散逸した詩経の詩篇や史書、孔子旧宅壁中の書、汲郡の古墳中の簡書などまだ見たこともない書物等を沢山見ることが出来ました。それでいつのまにか写し取るのに夢中になり、やがて初めてわかるおもしろみを覚えて、止められなくなってしまいました。それからは古今の名人の書画、一代の奇器などを見つけるや、度々市で衣服を脱いで金に換えて買い取ったりもしました。

今でもよく憶えておりますが、崇寧年間(1102~1106)の頃のこと、徐煕の牡丹の図をお持ちの方がいて、銭二十万を求められました。当時高貴の家の子弟といっても,二十万銭を要求されても、どうして簡単に工面できましょう、できるるものではありませんでした。二晩手元に留め置きましたが、結局買い取ることはできず返すしかありませんでした。夫婦向かいあって数日の間、惜しみ嘆き憂えたものでした。

それから郷里(青州。いまの山東省益都県)に十年引きこもることになりました (1104年、義父の趙挺之が亡くなります。その三日後、趙一族は追放され青州に帰ることとなり、この後十年間郷里におりました)。あれこれ収入もあり、また衣食にも余裕もできました。夫は続けて二つの郡の太守をつとめましたが(莱州と青州の郡守になられました)、その俸給はすべて、古書校訂につぎ込みました。一書を獲得すれと、すぐ二人で校閲をおこない、整理をして標題を付ける。書画や古青銅器が手にはいると、撫でさすったり広げたり巻き納めたりして、きずをたしかめたりして、一晩に蝋燭一本を燃やし尽くすのが慣わしでした。ですから装丁は精緻、字画は完壁、収書家として最も優れていたと自負いたします。


私は生まれつき記憶力に恵まれていましたので、食事がすむといつも、「帰来堂」(青州にあった趙家の書斎・書庫でございます)に坐してお茶をいれ、うずたかく積み上げられた書物を指さして、「あの事はあの本の何巻の何葉の第何行に有ったわ」などと言って、当たりかどうかで勝負をしては、お茶を飲む順番を決めたものでした。当たれば茶碗を挙げて大笑いして、ついにはお茶を着物上にこぼしてしまって、かえって飲むこともできずに席を立つ始末。ですけれど、こうして老いていければよいと思っておりました。ですから憂患困窮にあっても、志を曲げることはなかったのです。

収書が完成すしまと、帰来堂に書庫を設け、大きな本箱には目録を整え、書物を収めました。閲覧する際には、鍵を請け出し帳簿に付け、それから巻秩を探すようにし、少しでも汚損すれば、必ず修復補正を要求されたり、整うほどに以前のように気ままではいられなくなりました。これでは快適さを追求して、逆に堅苦しくなってしまいました。私の性分では耐えられず、それで食事からは肉を抜き、着物からは模様ものを抜き、首には宝石などの飾りを無くし、部屋には塗金刺繍の調度を無くして、家の書で、字に欠損がなく、編集に誤謬のないものは、すぐにそれを買い求めて、副本を備えることにしようと決心したのでした。もともと我が家では周易、左氏伝を家学としておりましたから、この二門に関わる文献は、最も備わることになりました。こうしてテーブルにずらりと並べ、枕元に無造作に重ねて、意にかない心のむくまま、目を遊ばせ思いを満たし、その楽しみは音楽・色恋・ペットといった愛玩に優るものでございました。

 靖康丙午の歳(1126年)のこと、夫は淄川(山東省溝川県)の知事でしたが、金軍が都に侵入したと聞ききました。茫然とまわりを見渡わすばかりで、手箱や箱に溢れるほどのものに、恋々とし、亦一方では心痛め、全て自分のものではなくなってしまうのだろうという予感を持ったのでした。

建炎丁未(元年・1127)年の春三月、姑の葬儀もあって南下いたしました。多くは載せきれませんので、まず版型の大きな書物を外し、次に幅数の多い絵画を除き、次に款識のない古器を除きました。その後また官書・普通の絵・大きく重い器物を除きました。こうして次々減らしましたが、それでもやはり書物は車十五台になってしまいました。東海(江蘇省東海県)まで来ましたあとは、舟を連ねて淮河を渡り、長江を渡って、建康(江蘇省南京市)にまいりた。青州の屋敷にはまだ書冊や什器が、十あまりの部屋に留められてあり、次の年の春にもう一度船に積んでくる予定でおりました。しかし、十二月になると、金軍が青州を陥れ、その十あまりの部屋の物はすべて燃え尽きてしまいました。

翌、建炎戊申(1128年)の秋九月、夫は今度は建康府の知事になられましたが、その翌年、己酉(建炎1129年)の春三月には辞され、舟で蕪湖(安徽省蕪湖市)に上り、姑孰(安徽省当塗県)に入り、贛水のほとりに居を構えることにいたしました。

夏五月、池陽(安徽省貴池県)に至りました。そこで湖州の知事の辞令を受け、都に上り皇帝に拝謁するため、一家を池陽に止めたまま、単身赴くこととなりました。六月十三日、荷を背負い、舟から岸に上がって座っておられた時、葛で織った夏着に頭巾を額まで上げて、虎のようなお心持ちなのか、眼光は爛々と人を射て、舟に向かって別れを告げられました。私は大層嫌な予感がいたしました。そこで呼びかけたのです。「もしこの町に危険が迫まりましたら、いかが致しましょうか。」夫は手を振って遥か遠くから「皆に従いなさい。やむを得ないときはまず旅の荷物を捨てなさい。次に衣類、その次は書冊と巻物、その次が古器、先祖の位牌だけは自分で抱えて、生きるも死ぬも身につけて離さないこと。忘れないでください。」とおっしゃって、馬を走らせて行ってしまわれました。途中大急ぎで馬を走らせ、酷暑を冒したからでしょうか、夫は病を得てしまいました。行在所に着いたときには熱病におかされておりました。七月末に、手紙で病に伏せっていると知らせがありました。私は驚き恐れました。夫はもともと性急な性分です、どうしたらいいでしょう。熱病に罹って熱が上がると、きっと熱冷ましを服用するでしょう、それではますますひどくなると心配致しました。そこで舟のとも綱を解いて川を下り、一昼夜三百里を奔らせました。着いてみますと、やはり柴胡・黄苓などの薬を大量に服用していて熱に加えて下痢までしおり、危篤状態でございました。私は悲しみの涙にくれ、後の事をたずねることもできませんでした。八月十八日、ついに起きず、筆を取って詩を作り、書き終えて亡くなられたのでした。特には死後の事は何も仰いませんでした。  

葬儀は終わりましたが、私には身を寄せる所もございません。朝廷ではすでに後宮の人々を分散させておりましたし,長江も渡航禁止という噂でございました。その時まだ書籍二万巻,金石の拓本二千巻,食器や寝具は百人の来客に対応できるだけのものがありました。ほかの家具もそれに見合うだけの数がございました。しかしまた、私までもが大病を患い、僅かに息をしているといった有様のなか、情勢は日々緊迫の度を加えておりました。

夫の妹婿に当たる方で、兵部侍郎の官にあって、皇太后の護衛をして洪州(江西省南昌市)にいる人がいらっしゃることに思い当たり、昔からの部下二人を使いに出し、先に一部荷物を送り、そこに身を寄せようと思い至りました。しかし、その冬十二月、金軍が洪州を落とし、万策尽きてしまいました。あの舟を連ねて長江を渡って来た書物も、雲・霞とちりぢりに消えてしまいました。わずかに小さな巻軸の書帖・写本の李杜韓柳の文集・世説新語・塩鉄論・漢唐の石刻の副本数十軸・三代の鼎鼐十数点・南唐の写本といったものが数箱だけ残ったばかりです。たまたま病中の慰みとして、寝室に持ち込んでいた物だけがやっと残っただけだったのです。

長江上流にはもう進めず、敵の勢いは予測しがたいところがありました。弟の迒が勅令局の冊定官をしておりましたので、そこに頼ることにし、台州(漸江省臨海県)に着いてみますと、知事はすでに逃亡しておりました。上陸し、衣類などを捨て,黄巌(漸江省黄岩県)に逃げ、舟を雇って海に出て、行宮に逃げのびました。当時仮御所は章安(漸江省臨海県東南)にありましたが、そこから御船の後に従って温州(漸江省温州市)に船を奔らせ、それからまた越州(漸江省紹興市)に参りました。

庚戌の年(1130年)の十二月、百官の解き放ちがあり、そこで衢州(漸江省衙県)に逃げました。

紹興辛亥の年(1131年)春三月、再び越州に赴きました。壬子の年(1132年)、今度は杭州(漸江省杭州市)に赴きました。亡き夫の病気が重かった時、張飛卿という学士が、玉の壷を携えて見舞いに来たことがございました。そのまま持ち帰っていきましたが、実はそれが大変な宝玉でございました。誰が言い伝えたのか存じませんが、敵に通ずるとの噂が広がり、また密かに弾劾の準備が進められているとも聞こえてきました。私は恐れおののき、申し開きも逃げもせず、家中の銅器などの器物を、尽く朝廷に寄進しようと思いました。越州に来たとき、皇帝はすでに四明(漸江省寧波市)に移られておりましたので、家中には止め置かず、写本と一緒に剡に預けて置きました。そのあと官軍が反乱兵を捕らえたとき、持ち去られ、全て前の李将軍の家に収まったと聞きました。やっと残っていた物も、こうして十のうち五・六は無くなってしまいました。ただ残っております三十五箱ほどの書画硯墨だけは、もう他に置いておけず、常に寝台の下に置いて、自分の手で出し入れしておりました。会稽(漸江省紹興市)におりましとき、当地の鍾氏の屋敷内に居がありましたが、ある晩、壁の穴から五つの箱が持ち去られました。私は悲しみ堪えきれず、懸賞を立てて買い戻そうとしました。二日後,隣人の鍾復皓が十八軸を持ってきて報償を求めました。それで盗人は近くにいると知れたのでした。いろいろ手は尽くしましたが、その他の物はついに出て来ませんでした。今では、それらは転運判官の呉説が安値で手に入れなさったということが分かっております。やっと残っていた物は、とうとう十のうち七八が無くなり、有る物といえば、一二の不完全な書冊、数種類の平凡な書帖だけとなりました。それでも尚また自分の頭や目のように愛おしんでおります。何と愚かなことでございましょう。

今日この「金石録」を見るにつけて、亡き夫に会っている気が致します。それにつけても夫が東莢(山東掖縣)の静治堂におりました時、初めて装幀の欠損を繕い、栞を作り帯をつけ、十巻を束ねて一帙を作った時のことを思いいおこします。夫は役所を終えた後の夜毎、二巻を校閲し、一巻の解題を記しました。これらは二千巻になりましたが、その内解題がつけられたのは五百二卷にだけでした。今もって夫の筆跡は新たに思われますが、夫の墓前の樹は既に大きく育っております。悲しみは増すばかりです。

昔、南北朝時代の梁の元帝(508~554)は西魏軍により江陵が陥とされた時、国の滅ぶるを惜しまず、十数万巻に及ぶ蔵書は元帝自身の手で全て焼き払われました。また、暴君といわれ、また愛書家でもあった煬帝(楊廣569~618)は離宮のある江都で滅んだ時、己の死を悲しむことなくその蒐集した図書に執着したと言います。人の性情の現れる所は死に臨んでも変わらないものなのでしょうか。或いは私の命少く、この珍しき文物を享受し尽くさないというのも、天意なのでしょうか。抑も亦死者にも知があって猶愛惜の情深くあるというのならば、人として留まろうとは思いません。なんと得るは難く、失うは易きことでしょう。

 ああ、陸機が作賦した二十歳より二年若いときから、蘧瑗が非を知った五十歳より二歳過ぎるまで三十四年の間(18歳から52歳まで)、愁いも得たことも失ったこともなんと多いことでしょうか。有あれば必ず無があり、集まれば必ず散らばる、それが道理というものでしょうか。故事に言うではありませんか、弓を失った人がいれば、またこれを得る人もいるのです、道理と言うに足りましょうか。ここに事細かにその一部終始を記しましたのは、またこの後、古きものを集め雅を広めようとする人の為の戒めともなればと存じてでございます。

 紹興五年(1135年)八月一日  易安室(李清照)記す


[原文]
 金石錄後序

 右《金石錄》三十卷者何?趙侯父所著書也。取上自三代,下迄五季、鐘、鼎、甗、鬲、盤、匜、尊、敦之款識,豐碑大碣、顯人晦士之事跡,凡見於金石刻者二千卷。皆是正訛謬,去取褒貶,上足以合聖人之道,下足以訂史氏之失者皆載之,可謂多矣。

嗚呼!自王播、元載之禍,書畫與胡椒無異;長輿、元凱之病,錢癖與傳癖何殊。名雖不同,其惑一也。

余建中辛巳始歸趙氏。時先君作禮部員外郎,丞相作吏中侍郎,侯年二十一,在太學作學生。趙、李族寒,素貧儉。每朔望謁告出,質衣取半千錢入相國寺,市碑文、果實歸,相對展玩咀嚼,自謂葛天氏之民也。後二年,出仕宦,便有飯蔬衣練,窮遐方絕域,盡天下古文奇字之志,日就月將,漸益堆積。丞相居政府,親舊或在館閣,多有亡詩、逸史、魯壁、汲冢所未見之書。遂盡力傳寫,浸覺有味,不能自己。後或見古今名人書畫,一代奇器,亦復脫衣市易。嘗記崇寧間,有人持徐熙牡丹圖,求錢二十萬。當時雖貴家子弟,求二十萬錢,豈易得耶?留信宿,計無所出而還之。夫婦相向惋悵者數日。

後屏居鄉里十年,仰取俯拾,衣食有餘。連守兩郡,竭其俸入,以事鉛槧,每獲一書,即同共勘校,整集簽題。得書畫、彝鼎,亦摩玩舒捲,指摘疵病,夜盡一燭為率。故能紙札精緻,字畫完整,冠諸收書家。余性偶強記,每飯罷,坐歸來堂烹茶,指堆積書史,言某事在某書某卷第幾葉第幾行,以中否角勝負,為飲茶先後。中即舉杯大笑,至茶傾覆懷中,反不得飲而起。甘心老是鄉矣,故雖處憂患困窮而志不屈。
 收書既成,歸來堂起書庫大櫥,簿甲乙,置書岫。如要講讀,即請鑰上簿,關出卷帙。或少損污,必懲責揩完塗改,不復向時之坦夷也。是欲求適意而反取憀慄。余性不耐,始謀食去重肉,衣去重採,首無明珠翡翠之飾,室無涂金刺繡之具。遇書史百家字不刓缺,本不訛謬者,輒市之,儲作副本。自來家傳《周易》、《左氏傳》,故兩家者流,文字最備。於是幾案羅列,枕蓆枕藉,意會心謀,目往神授,樂在聲色狗馬之上。

至靖康丙午歲,侯守淄川,聞金寇犯京師,四顧茫然,盈籍溢篋,且戀戀,且悵悵,知其必不為已物矣。建炎丁未春三月,奔太夫人喪南來,既長物不能盡載,乃先去書之重大印本者,又去畫之多幅者,又去古器之無款識者;後又去書之監本者,畫之平常者,器之竽大者。凡屢減去,尚載書十五年。至東海,連艫渡淮,又渡江,至建康。青州故第尚鎖書冊什物,用屋十余間,期明年春再具舟載之。十二月,金人陷青州,凡所謂十余屋者,已皆為煨燼矣。

建炎戊申秋九月,侯起夏,知建康府。已酉春三月罷,具舟上蕪湖,入姑孰,將卜居贛水上。夏五月,至池陽,被旨知湖州,過闕上殿。遂駐家池陽,獨赴召。六月十三日,始負擔舍舟,坐岸上,葛衣岸巾,精神如虎,目光爛爛射人,望舟中告別。余意甚惡,呼曰:「如傳聞城中緩急,奈何?」戟手遙應曰:「從眾。必不得已,先棄輜重,次衣被,次書冊卷袖,次古器,獨所謂宗器者,可自負抱,與身俱存亡,勿忘之。」遂馳馬去。途中賓士,冒大暑,感疾,至行在,病痁。七月末,書報臥病。余驚怛,念侯性素急,奈何病痁,或熱,必服寒藥,疾可憂。遂解舟下,一日夜行三百里。比至,果大服柴胡、黃芩藥,瘧且痢,病危在膏肓。余悲泣,倉皇不忍問後事。八月十八日,遂不起,取筆作詩,絕筆而終,殊無分香賣履之意。

葬畢,余無所之。朝廷已分遣六宮,又傳江當禁渡。時猶有書二萬卷,金石刻二千卷,器皿茵褥可待百客,他長物稱是。余又大病,僅存喘息,事勢日迫。念侯有妹婿任兵部侍郎,從衛在洪州,遂遣二故吏先部送行李往投之。冬十二月,金寇陷洪州,遂盡委棄。所謂連艫渡江之書,又散為雲煙矣。獨余少輕小卷軸、書帖,寫本李、杜、韓、柳集,《世說》、《鹽鐵論》,漢唐石刻副本數十軸,三代鼎鼐十數事,南唐寫本書數篋,偶病中把玩,搬在臥內者,巋然獨存。

上江既不可往,又虜勢叵測,有弟迒任敕局刪定官,遂往依之。到臺,臺守已遁之剡。出睦,又棄衣被,走黃岩,雇舟入海,奔行朝,時駐蹕章安。從禦舟海道之溫,又之越。庚戌十二月,放散百官,遂之衢。紹興辛亥春三月,復赴越,壬子,又赴杭。

先侯疾亟時,有張飛卿學士攜玉壺過視侯,便攜去,其實也。不知何人傳道,遂妄言有頒金之語,或傳料有密論列者,余大惶怖,不敢言,遂盡將家中所有銅器等物,欲赴外廷投進。到越,已移幸四明,不敢留家中,並寫本書寄剡。後官軍收叛卒,悉取去,聞盡入故李將軍家。所謂巋然獨存者,無慮十去五六矣。惟有書畫硯墨可五七簏,更不忍置他所,常在臥榻下,手自開闔。在會稽,卜居土民鍾氏舍,忽一夕,穴壁負五簏去。余悲慟不已,重立賞收贖。後二日,鄰人鐘百般皓出十八軸求賞,故知其盜不遠矣。萬計求之,其餘遂不可出,今知盡為吳說運使賤價得之。所謂巋然獨存者,乃十去其七八。所有一二殘零不成部帙書冊,三數種平平書帖,猶復愛惜如護頭目,何愚也耶!

今日忽閱此書,如見故人。因憶侯在東萊靜治堂,裝卷初就,簽縹帶,束十卷作一帙。每日晚吏散,輒校勘二卷,跋題一卷,此二千卷,有題跋者五百二卷耳。今手澤如新,而墓木已拱,悲夫!

昔蕭繹江陵隱沒,不異惜國亡,而毀裂書畫;楊廣江都傾覆,不悲身死,而復取圖書。豈人性之所著,死生不能忘之歟?或者天意以余菲薄,不足以享此尤物耶?抑亦死者有知,猶斤斤愛惜,不肯留在人間耶?何得之艱而失之易也!

嗚呼!余自少陸機作賦之二年,至過蘧瑗知非之兩歲,三十四年之間,憂患得失,何其多也!然有有必有無,有聚必有散,乃理之常;人亡弓,人得之,又胡足道。所以區區記其終始者,亦欲為後世好古博雅者之戒云。

紹興五年玄黓歲壯月朔甲寅日易安室題。


この原文は「中國名著選譯叢書76 李清照詩文詞 譯注・平慧善 審閲・馬樟根  錦繍出版」によります。


[略年表・エピソード]
  この記事に関わる略年表
1084年 1歳  李清照生まれる。なお前年とするものもある。
1101年 18歳  嫁ぐ。夫の趙明誠は太学生、すでに金石学で高名。
1104年 21歳  義父の趙挺之死去。その3日後、趙一族は追放、青州に帰る。
1127年 44歳  3月 義母、死す。青州の趙家の図書館「帰来堂」の文物のうち、良い物を選び船で建康まで運ぶ。書だけでも15車という。12月に青州に残した物を全て戦火で焼失。
1128年 45歳  夫趙明誠、建康(南京)の知事となる。
1129年 46歳 建康→池陽5月→衛→洪州

8月夫趙明誠死す。葬儀の後、清照病む。このときでも、蔵書は二万巻・金石刻二千巻を持っていたが、洪州で蔵書のほとんどを失う。

1130年 47歳  →越州   現在の浙江省内を転々とする。
1131年 48歳  3月越に戻る
1132年 49歳  →杭州 ここを都とする ・一説に、この年再婚。
1135年 52歳  8月金石録後序を記す
1151年 68歳  李清照死去(はっきり示す資料はない)
  

李易安作重陽《醉花陰》詞,函致趙明誠雲雲。明誠自愧勿如。乃忘寢食,三日夜得十五闋,雜易安作以示陸夫。夫玩之再三曰:“只有‘莫道不銷魂’三句絶佳。”正易安作也。(《詞苑叢談》)

趙が地方に赴任していた頃、李が詞を送ったときのことです。受け取った詞があまりにすばらしく、しかし負けたくないと思った趙は、三日間部屋にこもり、寝食忘れて十五首の詞を書きとめました。そして、その十五首を妻の詞とともに友達に評価させたところ、友達は、「すばらしい句がある」といいます。待ちきれずに「どの句か」と聞くと、友達が挙げたのは、妻の詞だったというエピソードはあまりに有名なようです。この三句を含む詞は、『酔花陰』です。

   
    醉花陰  九日     李清照    

 薄霧濃雲愁永晝
 瑞腦消金獣
 佳節又重陽
 玉枕紗廚
 半夜涼初透

 東籬把酒黄昏後
 有暗香盈袖
 莫道不消魂
 簾捲西風
 人比黄花痩


周渾『清波雑志』巻八「中興頒」
「漕漢中興頒碑,自唐至今,題詠實繁。零陵近錐刊行,止會粋已入石者,曾未暇廣捜而博訪也。趙明誠待制妻易安李夫人,嘗和張文潜長篇二,以婦人而側衆作,非深有思致者能之乎。(引沼漢中興頒和張文潜二首)頃見易安族人言,明誠在建康日,易安毎値天大雪,即頂笠披蓑,循城遠覧以尋詩,得句必遽其夫贋和,明誠毎苦之也。」
詩想を得る毎に贋酬することをせがんで夫を閉口させたということを、周輝が李清照の親戚から聞いた出来事として書き留めています。

 
 膠蓋孫『雲自在寵随筆』巻二 
「・・・・夏首後相輕過,遂出樂天所書樗嚴経相示。因上馬疾駆蹄,與細君共賞。時已二鼓下臭。酒渇甚,烹小龍團,相封展玩,狂喜不支,爾見燭践,猶不欲賑,便下筆爲之記。趙明誠。」
 知事をしているころのこと、花咲くのどかな集落に、夏の初めに立ち寄った時、やっと白楽天の手になる樗厳経を見せてくれた。それで馬に乗って馳せ帰り、妻と二人で鑑賞した。その時すでに夜の十時をまわっていた。酒を飲んでのどが渇いたので、小龍団の茶をたて、二人向かい合わせで広げて見たが、あふれる喜びを抑えられず、ロウソクを二本灯し終わっても、まだ寝付くことが出来ず、そこで筆を執って記録をしたためた。趙明誠。
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朝鮮の文化主義

去年(2008年)買って今年(2009年)読んだ故・司馬遼太郎先生の言葉です。

司馬 遼太郎/陳舜臣/金達寿 著 歴史の交差路にて 日本・中国・朝鮮)」 (講談社文庫)
(59~59ページ) 朝鮮の文化主義

金: 李朝の朝鮮は、礼教に対しては本家以上ですね。それがいまの話を聞いて少しわかりかけた。 朝鮮は一種の純粋主義でしょう。 特に明から清になってからは、われこそは中華であるという意識になるでしょう。

司馬: 事実そう言っていいと思うな。

陳: 本来なら朝鮮民族は弁髪にする系統ですよ。 女真族も日本族もみな頭頂を剃って弁髪チョンマゲにしているのに、朝鮮族だけ頑として儒教的礼教を守って、頭を剃らなかったのですね。 


金: それだったからまずかった。 つらかった(笑)。


司馬: こんにちの食卓塩のように塩化ナトリウムとしての結晶体として、朝鮮半島で残る。 しかし本物の中国では、そんな結晶体は必要ないわけです。 海水のような形をとって十分不純物を許容している。 結晶までいくことはない。 中国の宋の時代の末期(12世紀)になると、朱子学なんか結晶主義みたいなのがちょっと出てきますけれども、本流とは言いきれない。 


金: それに対して、朝鮮は文化主義だな。

司馬: そうですね。

金: 中国に対しては特に文化主義をとっていまね。 李朝の支配階級は、年4度、使節を出して中国皇帝に礼をとっている。 中国から見ると、清朝にとっては、それだけ文明化してくれたというところだったかもしれない。



司馬: 文明化したほうが、つまり「華」であったほうが、清にとっても朝鮮にとっても相互に無害だったわけですね。


金: 

司馬: 

陳:


金: 

司馬:
 

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韓国のカプチャン

司馬遼太郎 (著) 『街道をゆく(28) 耽羅紀行(たんらきこう)』
朝日文庫  2005年2月25日第13刷発行(1990年8月20日第1刷発行)

■耽羅紀行(韓国)
常世の国/焼跡の友情/俳句「颱風来」/三姓穴塋域の記/石と民家/"国民"の誕生/郷校散策/士大夫の変化/北から南への旅/父老とカプチャン/神仙島/モンゴル帝国の馬/森から草原へ/お札の顔/朝天里の諸霊
不滅の風韻/思想の惨禍/車のはなし/故郷/虎なき里/憑きもの話/近くて遠い/シャーマン/泉靖一氏のこと/赤身露体/『延喜式』のふしぎ

連載・週刊朝日 1986年3月21日号~9月19日号

『 耽羅紀行 』 は朝鮮半島の南に位置する済州島の紀行文です。


(132ページ~134ページ)
 康昌鶴氏は、私に、
「カプチャンというのをご存知ですか」
 と、いう。 甲丈とか等甲とかいう文字をあてるそうだが、同年齢という意味だという。 初対面で相手が同年齢とわかると、とたんに敬語がなくなりたがいに無害な悪口雑言(あっこうぞうごん)のやりとりをする。 そのやりとりをもふくめてカプチャンというのである。

 儒教社会は、年齢で拘束される。 尹学準氏り前掲の本(オンドル夜話)によると、年が倍以上の相手に対して父親に事(つか)えるようにし、十歳上だと兄に事えるようにする。 五歳上だと肩を並べていいが(友人としてつきあっていいが)ただし一歩さがるようにして待遇する、ということになっている。 人中(ひとなか)に入ると、相手の年齢を見て自分の礼をさまざまに変えねばならず、まことに気苦労なものなのである。
 
 そこで、同年齢という、上下の礼を用いずに済む相手を発見したとき、よろこびのあまり、爆発的にカプチャンをやる。
 私は、康昌鶴氏の年齢をきいた。 丙寅のうまれ、日本でいうと大正15年寅のとし、1926年である。
「あっ、姜在彦(カンジェオン)さん」
 と、私は康昌鶴氏の席からやや遠い場所にすわっているわが友を指さした。 そこで、カプチャンは炸裂した。 

 おどろいたことに、姜在彦(カンジェオン)さんも相当に戦い、しばしば受け太刀ながら、ときにお面に撃ち込んだりした。
 まことに絶妙な悪口漫才で、録音でもしておけば無形文化財の資料になるのではないかと思われるほどだった。
「姜在彦(カン、kwang)という名はギャングと似た音じゃないか」
 からはじまった。

 姜在彦氏は、髪が多く、かつ黒い。 これだけでも悪口のたねになる。 康昌鶴氏は突っこんできて、
「その髪じゃ、まだ生枯れと見たわい。 未練たらしくまだ人生に悩みがあるだろ。 あるなら、おれのとこへ言って来い。 ぜんぶ解決してやるよ」
 といったぐあいである。 姜在彦さんも負けはしなかったが、どうも舌がうまくまわらない。 

「こんな男に言っても壁に言ってるようなものだ」
 とやりかえしたが、日本にながくいてカブチャンの腕を磨いていないために、たじたじのようだった。

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