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;『日本人と中国人』 第四章 ことだま

陳舜臣 『日本人と中国人』 (集英社文庫)

第四章 ことだま――”同文同種”と思いこむことの危険・・・・・・87頁
[道しるべ]・・・・・・88頁
  ・ 日本にとって中国は ”打出 (うちで) での小槌 (こづち)”  
  ・ ”遁世” さえパターン化した日本
  ・ ”道しるべ” を建てた民族と、それに従った民族
  ・ ”以心伝心” とは過程のない理念

[ちょっとぼかす]・・・・・・96頁
  ・ 日本人の短期は日本語が原因
  ・ 結果がわからなければしゃべれない日本語
  ・ 日本語はあまりにも明晰すぎる。
  ・ 日本人の ”笑い” と ”語尾の省略” は同じ精神の姿勢

[同文同種に甘えるな]・・・・・・106頁
  ・ 中国と日本は ”同文同種” ではない
  ・ ”殺” とは ”殺す” ことではない
  ・ なぜ日本語に ”殺” の用字がすくないのか
  ・ 中国語の ”鬼才” は特定の個人の呼称
  ・ 両国語のニュアンスについて理解を深めよう
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浅田次郎「中国論」(第11回)

浅田次郎「中国論」(第11回)
G26月 8日(火) 16時46分配信 / 海外 - 中国

G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■漢字の不思議な力

浅田氏は、中学二年生のとき、国語の先生が漢詩を読み下し文で読んだ瞬間に「なんだ、この美しい言葉は!」と思ったという。外国語なのに、言語に返り点をつけて日本の構文に直して読み下したら、非常に美しい文章になり、そのうえ、言わんとしている内容まできちんと伝わってくる。そうした言葉の変換の不思議さにどんどん惹かれていったという。

「そもそも、英語の詩を日本語に翻訳しても、こうは完全な対応関係にはならないわけです。ところが、漢詩と日本語の読み下し文のあいだにおいては、発音のちがいがあるだけで、内容の変化やましてや誤訳は発生しません。まぁ、稀に格好良く読み過ぎてしまう先生もいらっしゃいますが、その格好良く読み過ぎた文も味があってすばらしい」

「漢詩においては現代に沿った新訳のほうがいいのかといったら、そうとも限りません。むしろ、漢籍の教養がにじみ出ている昔の老大家の読み下しにこそ愛着を覚えてしまいます。
漢字という媒体を通せば、中国人と日本人というちがう言葉を話している国民同士が、まったく心を一にすることができて、美的情緒の面までも心を一にすることができる。その不思議さに、私は心を揺り動かされたのです」

中国文学を読みこんで中国を理解してきた浅田氏。その理解の過程には「漢詩を書き写す」こともあった。

「中国の文学、ことに漢詩の場合は自分で書き写すと内容がよく伝わってきます。漢字には、一文字一文字書いてはじめてわかる不思議な力があるのです。ですから、いまでも漢詩の書き写しは趣味ですね。私はかつては日本語の文章もよく書き写していました。それは別に勉強のためではありません。良い文章を深く味わうためには、自分で書き写してみることが一番だからです」

「漢字に対する私の考え方は、白川静先生から大きな影響を受けました。漢字文化の研究において、あらゆる学派に属さずに『白川学』を作りあげた底力には感心させられます。たしかに白川先生の説には、解釈の域を超えて詭弁を感ずることもあります。しかし、それはそれとしても、私は漢字が持つ一字一字の重さを白川先生から教わりました」

「小説を書いているとき、文章の流れのなかで必ず使うべき漢字を見つけることがあります。たとえ読者が知らない難しい漢字でも、文章の流れのなかでピッタリはまる漢字がある。これは、漢字のルーツが象形文字であるということの証拠だろうと思っています」

(第12回につづく)
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浅田次郎「中国論」(第10回)

浅田次郎「中国論」(第10回)
G26月 3日(木) 11時14分配信 / 海外 - 中国

G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■張作霖研究家との出会い

張作霖の長男・張学良については『中原の虹』執筆過程における秘話もある。

「張学良は二〇〇一年まで生きていて、生前NHKの番組でインタビューも受けています。その張学良の番組を通じて不思議な縁がありました。以前、NHKの番組に出演したことがきっかけで、張学良のインタビュー番組を作ったディレクターとその奥様にお目にかかったのです。話をしてみたら、ディレクターの奥様は富山大学で張作霖を研究している澁谷由里先生だというではありませんか。これは天の助けと思って、当時執筆中の『中原の虹』の校閲を澁谷先生にお願いしました」

「その助けがなければ小説のなかで実現できなかったことはたくさんありました。たとえば、満洲語の表現について、その富山大学の先生の恩師である京都大学の先生の助言をいただきました。その方はもう相当のご高齢なのだけれども満洲語を専門にされている方で、もしかしたら日本で最後の満洲語研究家かもしれません。その先生に満洲語の表現や発音を教えていただきました。そうした助けもあって『中原の虹』は完成したのです」

『中原の虹』を発表したあと、実際に昔の満洲を知っている人からの手紙がたくさん届いたという。たとえば、「私は現在九〇歳で、もとは満鉄の社員でした。張作霖の『打聴、満洲風』という言葉にしびれました」といった感想がとてもうれしかったという。

「つまり、実際の満洲を知る人たちにとってもリアルな満洲の風や大地の一端を描けていたのだと思う。当時の満洲に渡った人たちは、何かしらの青雲の志を持っていた方が多い。そういう気持ちを持っていた人たちの心に『打聴、満洲風』という言葉が響いたのだとすれば、こんなにうれしいことはありません」

(第11回につづく)
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浅田次郎「中国論」(第9回)

浅田次郎「中国論」(第9回)
G25月31日(月) 16時32分配信 / 海外 - 中国

G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■宋教仁と国民選挙

『中原の虹』では、冒頭で触れた国民選挙を実現させようとした政治家、宋教仁の演説シーンをいかに描くか、苦労したという。宋教仁の演説はこう結ばれている。

〈そのほかの名誉は何もいらない。私が勲とするところは、ひとえに民の平安である。
敬愛する中華人民諸君!
どうかこの歓呼の声を、私に対してではなく、祖国の未来に向けてほしい。
この地球のまんなかに咲く、大きな華に。けっして枯れることもしおれることもない、中華という大輪の華に。〉

「宋教仁は実務家だから勤勉に働いたけれど、書きものはあまり残していなかった。だから宋教仁の演説がどのようなものであったのか、実はわからないのです。上海の駅頭で演説をしたあとで殺されたのは確かなのですけど。どうすれば彼の演説のエッセンスを表現できるのか。最終的には、彼と同郷で彼と最も近い足跡を辿った人は誰かと考えました。すると、うってつけの人を発見しました。陳天華という宋教仁の同志です。この人は宋教仁と世代が同じで同じ時期に日本に留学していて、同じ会派に属していた。しかも同郷でもあるから、思想もかなり近いだろうと読みました。この陳天華は演説記録を残していたんです。彼の演説の草稿をベースにして、これに宋教仁らしい思想をミックスさせて彼の演説を書きました」

『中原の虹』は、親も家もない流民の子、張作霖があるとき老占い師に「汝、満洲の王者たれ」との予言を受けるところから物語がはじまる。天命を持つものだけが手にすることのできる龍玉を、清朝の太祖ヌルハチの墓で手に入れた張作霖は、予言通り馬賊の長としてめきめきと頭角をあらわしてゆく。一連の取材を通じて浅田氏が馬賊の子分のなかで印象に残っているのは、どちらも実在の人物である張景恵(好大人)と馬占山(秀芳)だった。

「馬賊の格なら、実は張作霖より張景恵のほうが上だった。けれども張作霖は、総攬把の地位を張景恵から譲られる。そのとき張景恵は『器はこいつのほうが上だろう』と思ったのでしょう。部下は張景恵のほうがずっと多かったけれども、求心力があるのは張作霖だという判断です。張作霖の子分になった張景恵はのちに満洲国の国務総理になる。そして日本の敗戦後に捕まって獄死しました。撫順の収容所で彼が死んだ部屋を見ましたが、感慨あらたなるものがありましたね。実は、彼の息子がその牢獄の看守なんです。偶然、撫順の看守をやっていて、近くの奉天から連れてこられた父親を看取ることになるわけです。まさに事実は小説よりも奇なりですね」

■馬占山は神出鬼没

馬占山は『中原の虹』のなかでは先駆けを務める華のある馬賊だ。『中原の虹』では貧しさから地主と関係を持った妻を許せず、妊娠を知りながら捨てたことを悔いている。あるとき討伐に向かった匪賊のなかにその妻を見つけたが、敵として自ら撃ち殺したという人物である。

「馬占山は日本軍に最後まで徹底抗戦します。日本でも、『馬占山征伐』というニュースが何回も臨時で出されたほどですから。『馬占山死亡』という記事も何度も報じられています。ところが、そのたびに『やっぱり馬占山は生きていた』と訂正記事が出る。馬占山は神出鬼没、不死身の将軍だったのです」

「実は日中戦争当時、日本では馬占山ごっこっていうのが流行ったらしい。その遊びの内容はわからないんです。少し調べてみたのですが、わかりませんでした。おそらく、神出鬼没の鬼であるという要素がどこかに入った遊びなのでしょう」

『中原の虹』を発表する前、浅田氏は中国人小説家たちに「次は張作霖を書く」と伝えたことがあるという。

「上海の作家協会で中国人小説家たちと話をしているときに『中原の虹』の構想を伝えたら、満場一致で『張作霖を小説のヒーローとして書けるはずがないじゃないか』という反応でした。なかには爆笑した人もいたほどです。こちらとしては、そうした反応を見て心のなかでガッツポーズをきめました。これほど過小評価されている人物なら、誰もが驚くような小説を書けるに違いないと思ったからです」

(第10回につづく)
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浅田次郎「中国論」(第8回)

浅田次郎「中国論」(第8回)
G25月28日(金) 11時15分配信 / 海外 - 中国
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G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介


■「未知の大地」の風を感じて

『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』を書きあげた浅田氏は、続編である『中原の虹』を中国東北部での綿密な取材を重ねて執筆していった。『蒼穹の昴』執筆当時、まだ一度も中国に行ったことがなかった浅田氏にとって、かつて満洲と呼ばれた中国東北部への旅は積年の夢だった。

「『蒼穹の昴』は文学書や歴史書や史料を中心に想像して描いた世界でした。はじめて中国に行ったのは一九九七年で、『蒼穹の昴』刊行の翌年。当時から『中原の虹』の構想はあったので、その取材のため万里の長城に出かけたわけです。万里の長城に立って「ここから向こうが満洲なのか」と思ったときの感動は、よく覚えています。『中原の虹』の主人公である張作霖が馬賊たちと共に万里の長城を越えてきた、その大地のイメージがまざまざと頭のなかに浮かびました。理屈抜きで、これが満洲なんだと体験できたのです」

現在の瀋陽(旧奉天)は大都会だが、一九九七年に訪れた頃はまだ「田舎の風情」が感じられたという。浅田氏の中国東北部に対する第一印象は「気候のいいところだなぁ」ということ。夏に出かけたので、空気がサラッとしていて非常に過ごしやすく、夏の北海道のようだったという。

「中国東北部がどんなに寒くても、氷に閉ざされているのはせいぜい数ヵ月です。夏の気候は本当に素晴らしい。だから、直感で悪い土地ではないなと思いました。そして土の色を見てみたら、北京周辺の河北省に比べてずっと土地が肥えているとわかったのです」

満洲の森林と草原を前にして、「豊かな土地だ」と感じた浅田氏は、かつて日本がこの土地に固執した理由もわかるような気がしたそうだ。もっと冷たく荒れ果てたところかと想像していたが、とても魅力的な土地だったのだ。

「『中原の虹』の取材では何度も北京や瀋陽に行ったので、とてもリアリズムのある小説になったと思います。満洲のさまざまな季節をこの目で見たからこそ、『中原の虹』で張作霖が『東三省をわがものとするつもりか』と問われたときに『打聴、満洲風(満洲の風に聴け)』と言うシーンを書けた。あれは満洲の風を知っていなければ書けない言葉ですから」

張作霖は満洲の風を愛しており、自分が生まれ育った土地を愛している。だから「自分の行く末のことなんて満洲の風に聴けばよかろう」と言うのだ。

「中国の共産主義というのは、ソ連からの影響だけではなくて、中国内部のいろいろな個人の思想の影響を受けたものではないでしょうか。中国の共産主義には、たとえば清代末期に康有為が唱えた平等主義・大同思想の影響を明らかに受けているところがあります。同時に張作霖のものの考えかたも、中国共産主義に何かしら影響をおよぼしているのではないでしょうか。馬賊出身で、あれだけの貧乏人でありながら国土の四分の一を支配したというのは、中国の歴史のなかでは異例です。張作霖の貧乏人根性は、中国共産主義にどこかで影響を与えたのではないかと想像しています」

「張作霖は五三歳で死ぬまで、けっして貧乏人根性を忘れませんでした。満洲では張作霖にまつわる具体的なエピソードを耳にしました。たとえば、こんな話です。ふつう、リアカーというのは自転車の後ろにつけるものでしょう。ところが、瀋陽の街では、人々がリアカーを自転車の前につけて押している。不思議に思って私が地元の人に『なんでリアカーを押しているの?』と質問したら、『実はこれは張作霖が“こうしたほうがいい”と発案したんだ』と言う。『押していたら、自分の目で荷物が見えているから事故が少なくて、泥棒に盗られにくいぞ』と。そんな形で張作霖の政治は現在も生きている。そういう発想って貧乏人でなければ思いつかないでしょう? だから、張作霖の思想は、のちの体制にも影響を与えたのではないかと思っているのです」

近代的な軍事教育を受けていない張作霖が戦争を指揮することは、近代の軍事理論の常識を超えている。『中原の虹』のなかでは、日露戦争以降、つまり日本の軍事教育が完成されたあとの日本軍人は張作霖を見て「無教養な人物に一個師団を率いることは不可能」と侮る。しかし、張作霖は簡単に統率してしまった。なぜ張作霖はそんなことができたのか。

「馬賊の場合、指揮する馬の数は数十頭までが普通でしょう。あとは子分がいても見えないのだから『戦争』の範疇に入らない。つまり『喧嘩』の範囲に留まっていた連中を率いて『戦争』を指揮してしまったのが張作霖なのです。なぜそんなことができたのだろうと不思議に思います。そもそも知識がないのだから、軍事的な才能があったとは思えません。やはり求心力や神がかり的なところがあったから実現できたのでしょう」

「張作霖は、空に投げたコインを撃ちおとすほどの神業的なピストルの達人でした。若い時分から馬賊の頭目として数えきれないぐらいの人を殺してきた逸話も残されています。いくら人間の命の価値が安かったとはいえ、ここまで人殺しに精を出し続けてきた男が、なぜ国民に人気があったのか。その魅力を想像で探っていくプロセスは興味深かったです。小説のなかでは、私は張作霖にこんなセリフを語らせています。『百万も千万も殺してやるさ。百年ののちに十億の民が腹いっぱいに食って、天寿を全うできればそれでよかろう』。これは想像の言葉ですが、張作霖の思想ではないかと思っています」

(第9回につづく)
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浅田次郎「中国論」(第7回)

浅田次郎「中国論」(第7回)
G25月24日(月) 11時32分配信 / 海外 - 中国
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G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■植民地政策と西洋の良心

浅田氏は『蒼穹の昴』のなかでカスチリョーネ(郎世寧)というナポリ出身の実在の人物を登場させている。清王朝の康熙・雍正・乾隆の三代にわたって仕えた技術者で、もともとは画家だが、音楽も建築も専門家で、都市のインフラ整備、とりわけ当時の北京の下水道整備などで活躍した人物である。また、円明園という西洋式の庭園の設計も残している。

「私が小説にカスチリョーネを登場させたのは、中国に対して悪いことばかりをしていた西洋社会の良心の所在を考えるためです。カスチリョーネというのはこの作中で真正面からテーマを語っている唯一の人物です。彼の絵はずいぶん残されているのだけれど、見るたびに心を打たれます。彼の絵は西洋画の画法としての陰影や遠近のつけかたをきちんとしている。それと同時にルネサンスの西洋においてはありえなかった細密画法、つまり精密なほど美しいとされる中国画の画法も取り入れている。非常に面白い折衷の仕方をしています。私はカスチリョーネの絵から彼の人格を想像してみました」

カスチリョーネの人柄を考察するための史料としては、ほとんど芸術作品そのものしか残されていない。それでも浅田氏は作品を通して語りかけてくるその人格に打たれ、そこにヨーロッパ覇権主義の良心を感じたという。

「そもそも、西洋の植民地政策はすでに乾隆帝の時代には盛んでした。当時のイエズス会はヨーロッパの王権と結びついて、世界各地を植民地にするための方策を練っていましたから。当時のイエズス会士と法王庁の間での書簡、あるいはイエズス会士とフランス・イエズス会の間に交わされた書簡を読んでみると、面白おかしく中国における見聞が書いてあります。そればかりでなく、政争の状態、政治の形態、軍事の状況までこと細かく書かれていました。おそらく宣教師たちはスパイとしての役割も担っていたのでしょう」

「しかし、なかにはカスチリョーネのように、スパイとして中国に送りこまれながらも中国の美しさに触れて『中国人になろう』と三代の皇帝に忠義をつくして、中国で生きて中国で死んだ人物もいたわけです。これこそ、西洋の良心ではないでしょうか。しかも、カスチリョーネは乾隆帝の教育係にあたっていたわけです。おそらく、カスチリョーネは清王朝の支配階級における思想の中心部分をつくった人物の一人ではないかと思うのです」

■芸術とは誰のものか

浅田氏はカスチリョーネの生きかたを通して、小説のなかに自分自身の芸術論を投影させた。浅田氏は、芸術は常に大衆と共にあるべきもので、閉じられたサロンのものであるべきではないと確信している。

「芸術をあまりにアカデミックなものにしたのは近代の犯した過ちでしょう。歴史を遡れば、純粋な芸術作品は庶民の手の届く場所にあって、人間が病気や飢餓に苦しんでいたときの『なぐさめ』になっていたのではないでしょうか。私はそんな想像をしているのです。古今東西、権力者のほうを向いている芸術家というのはロクなものではありませんから」

「西洋の芸術家としての教養と技術を持ちあわせながら中国に生き、作品のみを残して死んだカスチリョーネの魂は、私の理想の芸術家像に近い。はじめは命じられて中国に赴任したのでしょう。しかし、中国で生きるうちに少しでも自分の手で、美しいものをこの中国に生きる人たちに見せてやりたいと思ったのではないでしょうか。彼こそ、真の芸術家です。私も、そういう気持ちで小説を書いていきたいと思っています」

『蒼穹の昴』の続編である『珍妃の井戸』の舞台は、列強諸国に蹂躙され荒廃した清朝最末期の北京だ。その混乱のさなか、紫禁城の奥深くで一人の妃が無残に命を奪われた。皇帝の寵愛を一身に受けた美しい妃は、なぜ、そして誰に殺されたのか。犯人探しに乗り出した日英独露の高官が知った真相は―。芥川龍之介の『藪の中』のようなスタイルで幾つもの角度から語られる珍妃殺害の事実は、列強諸国自身が中国に対しておこなった現実をあらためて知らしめることになった……。

「本来は『蒼穹の昴』の大団円に義和団事件を書こうと思っていました。しかし、書き進むうちに義和団事件そのものは別のテーマで書いたほうがいいと思うようになったのです。つまり、義和団事件はひとつの物語の最後につけ加えてそれで済むほど、簡単な話ではなかったのです。だから『珍妃の井戸』というもうひとつの作品にして書いてみました。この小説では、義和団事件と、そのあとの軍閥の台頭に焦点を当てました」

「少し気になるのは、『蒼穹の昴』や『中原の虹』の販売部数に比べて『珍妃の井戸』の読者が少ないことです。これは怖い。つまり、『蒼穹の昴』を読んでそのまま『珍妃の井戸』の存在に気づかずに『中原の虹』を読んでいる人がたくさんいるのではないか。ところが『珍妃の井戸』を読んでいないとその後の展開がわからない部分が相当ある。たとえば『中原の虹』で袁世凱殺害にかかわる重要な人物も『珍妃の井戸』に出てくるから、是非読んでおいていただきたいのですけど」

(第8回につづく)
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浅田次郎「中国論」(第6回)

浅田次郎「中国論」(第6回)
G25月20日(木) 14時37分配信 / 海外 - 中国
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G2 vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■李鴻章、亡国の買弁と呼ばれて

もう一人、『蒼穹の昴』でかなり大胆に再評価をされている人物が、李鴻章だ。李鴻章の中国国内での評価は極めて低いという。

「私自身は、李鴻章に関しては『蒼穹の昴』の中で高く評価をしているように、すばらしい人物だと思っています。しかし、西太后とは比較にならないくらい、まだまだ評価をされていません。『蒼穹の昴』を日中合作でドラマにするにあたって、西太后をポジティブに描くことについては中国当局の反応は「ここまではいいだろう」という雰囲気でした。しかし、李鴻章については頑なな反応でした」

「李鴻章は香港を九九年も英国に貸与する条約にハンコを押した人物です。それから日清戦争の結果、台湾を割譲するハンコを押した人物でもあります。諸外国に対して「国土を貸します、あげます」という条約を結んでしまった人物です。もちろん、それが現在まで影響して中国は領土問題をひきずっているから、「李鴻章は亡国の買弁である」と批判されるのは無理もないことかもしれません」

「しかし阿片戦争以降の清朝の状況を冷静に鑑みれば、李鴻章は不平等条約を結び続けながらも、中国を維持させようとした偉人なのです。李鴻章の外交があったからこそ、中国は結果的には植民地にならないで済みました。李鴻章があれほどの妥協をしていなければ、中国は諸外国に一気に攻め滅ぼされて植民地として分割されていた可能性が高い。そのような意味で、私は「強い意志を持った西太后」と「その意志を政策として実行に移した李鴻章」は黄金のタッグであったと捉えています。なにもしなければとっくに滅亡していた清王朝を五〇年間も存続させて、何とか民国政府にバトンタッチした二人の手腕は尊敬に値すると思っています」

「西太后や李鴻章のなかには「植民地化を防止しよう」なんて方針はなかったかもしれません。しかし、この二人が諸外国としぶとい折衝を続けたことで、中国人が国土を支配し続けたことは紛れもない事実です。その事実は正当に評価されるべきではないでしょうか」

「今回のドラマに対する中国側の反応を見ていて、浅田氏は中国の歴史観はだんだん柔軟になってきていると感じている。以前であれば、西太后さえも認められなかったであろうから、と。『蒼穹の昴』のテレビドラマにおける主役は原作と同じくのちに宦官の長官になる李春雲(春児)であるが、これは中国が製作に関わったドラマでは画期的なことだった」

「中国国内でこれまで悪人としてしか描かれてこなかった宦官がテレビドラマの主人公になることは、中国の歴史解釈が柔軟になってきていることの証拠ではないでしょうか」

「ところで、中国の近代史に謎が多いひとつの原因は、清朝の正史が書かれていないことです。中国には歴代王朝が交代した後、新しい王朝が前の王朝の正史を書くという伝統がありました。しかし、清朝が滅びた後は王朝がないので、清朝には国が認める「正史」がないのです。正史の代わりに『清史稿』というものが残されています。これは、元の東三省総督という、いわば一介の地方行政官であった趙爾巽という人物が中心になって書かれたものでした。「稿」という字には、「まだ認められていない草稿である」という意味があります。つまり、『清史稿』はあくまで下書きですが、私は非常に偉大な功績だと思っています」

「清朝の末期というものは、明治維新のように書きやすいものではありません。日本の幕末はせいぜい一〇年や一五年というスパンにおいて語られます。しかし、清朝末期というのは、阿片戦争以降、七〇年も国が苦しみ続けるプロセスです。苦しんで苦しんで、それでもうまく歴史を転換できずにいたという、その複雑な経緯を文章にまとめることは非常に困難です。しかし、困難であるからこそ、歴史を記録に残しておく意味もあるわけで、私はそうした意味で『清史稿』をまとめた趙爾巽は尊敬するべき人物と考えているのです」


(第7回につづく)


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浅田次郎「中国論」(第5回)

G25月13日(木) 10時38分配信 / 海外 - 中国

G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■日本人の没個性、中国人の自己主張

清朝を代表するような傑物を皮膚感覚で理解した浅田氏が気付いたのは、「中国の歴代の政治家は日本の歴代の政治家に比べて極めて個性的」ということだった。

「日本と中国の差は、国民性の違いでしょう。日本人は狭い土地のなかに人口過密状態で暮らしているから、「突出してはならない」という道徳が身についている。みんなで同じように暮らしていかなければならないという道徳があるために、没個性にも?がるわけです。日本で派手な格好をしていたら『目立ちたがり』と戒められます。地味であるということが、過密社会のマナーだったのですね」

「しかし、中国人はアメリカ人と同様に『自己表現』の世界で生きている。いかに自分をアピールするか、そればかり考えているから声も大きくなる。日本では政治家の弟子は師匠の劣化コピーみたいになりがちです。しかし、中国人政治家にはそういう「縮小再生産」は感じられません。清朝末期の軍人政治家の系譜は、曾国藩、李鴻章、袁世凱と受け継がれますが、それぞれに独特のキャラクターがあります」

「そういう中国人特有の個性は、いま、中国旅行に出かけて街中で人物を観察していても伝わってきます。日本の街中で人間をしばらく見ていても、みんな似ているものだからあんまり面白味はない。でも、中国の街中で見かける人たちは、表情といい身ぶり手ぶりといい、もう誰も彼も他人のマネをするのはイヤだと言わんばかりの個性的な人たちが多い。だから、見ていて飽きないのです。日本社会は「没個性」で集団をまとめてきたから、それはそれで幸福なことだったのかもしれませんけれども」

■西太后の再評価

浅田氏は『蒼穹の昴』で、それまで悪女とされてきた西太后の再評価を試みている。つまり、西太后はこれまでの一般的な評価「亡国の鬼女」ではない。本当の姿は「亡国の鬼女に見える言動をしてでも中国を救済しようとした人物である」と。『蒼穹の昴』日中合作ドラマ化にあたり、西太后再評価は中国側のスタッフにどのように受けとめられたのだろうか。

「私の西太后解釈に対して、頷いてくださるスタッフが多かったですよ。私は西太后の再評価については、自分の考えに確信を持っています。なぜなら、これまで伝えられてきたような悪女であるなら、あれほどの長期政権を維持できたはずがないですから。それに西太后は老境にさしかかった頃の写真がたくさん残されています。それらの写真の数々は北京の市内で販売されていたそうです。つまり人気のあるブロマイドとして流通していたのです。これは西太后が民衆に慕われていたという証拠です」

「西太后が歴史的に「悪女」になったもとを作った『戦犯』は、エドマンド・バックハウスとジョン・ブランドの共著による『西太后治下の中国』という本です。西太后は彼らの著作によって悪女というレッテルを貼られてしまったのです」

(第6回につづく)


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浅田次郎「中国論」(第3回)

G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■政治と文学の相関関係

浅田氏は文学の素養がなければ中国の政治を語ることができないと指摘する。政治と文学にはどのような関係があるのだろうか。

「中国文化は長い歴史のうえに成立していますが、そのうちの一三〇〇年間ほど、すなわち隋の時代から清の時代までは、科挙制度を通過した官僚によって政治が行われていました。
ご存知のとおり、科挙制度というのは、人類の歴史上最も過酷といわれる官吏登用のための試験制度です。この科挙の試験問題の配点ですこぶる重視されていたのは「詩作」です。受験科目の三分の一が詩作だから、小さい頃から詩を作ることばかり勉強してきた人たちが官僚になり大臣になり、政治の中枢を担っていったのです」

「つまり、中国における大詩人はまず全員が政治家でした。あるいは、ほとんどの政治家は同時に詩人としての教養を持ちあわせていた。これは他国には類を見ない中国史の特殊性と言えます」

詩作に加えて儒教など古典の教養に重点を置いた試験制度によって、中国は世界でも非常に独特な文治国家になった。

「中国の現在を知るには中国の過去を知らなければなりません。そして、中国の過去の政治を知るには、まず官僚にとっての基礎的な教養であった詩作、つまり文学を知らなければならないのです」

「南宋の著名な詩人である陸游はロマンチックに夜空の銀河を詠いあげるような叙景詩を残しています。一方で、北方の異民族国家である金に追われた南宋の官僚として今の世を嘆いた社会的・政治的な詩もたくさん書いています。作風があまりにちがうので、私は高校時代には「陸游という人は二人いるのではないだろうか」と思っていたほどです。しかし、そのうち、文学と政治が無理のないかたちで両立していることにこそ、中国文化の特質があると考えるようになりました」

「もうひとつ、中国の文治主義を象徴しているのは、町でよく見かける「口喧嘩」かもしれません。中国を旅行していると、中国人同士の口喧嘩をよく見かけます。読者のなかにも、そんな光景をご覧になった方も多いことでしょう。それを見て、どんな感想を持つか。中国人は怖いと思う人もいるかもしれません。あるいは、喧嘩好きな民族だと感じる人もいるかもしれません。私はついつい見物してしまって、中国人の口喧嘩は見応えがあるなと感じています」

街角で中国人二人が喧嘩をしているのを見ていると、もう両方ともにワァワァと好き放題に怒鳴りあっているものだから、そのうち周囲に人の輪ができる。しかも本人たちもまわりも、手は出さないまま、あくまでも「言論」でやりあっている。どこか大道芸のように「相手を罵倒する構文の豊饒さ」を披露しあい、本人たちも周囲もそうした口喧嘩を楽しんでいるフシがあるという。

「この『人間を罵倒する表現』にかけては中国語の語彙の豊かさにいつも感心させられます。こうした状況は、ある意味では高等な文化の素地を背景にしていると言えるのではないでしょうか。つまり、中国における「もめごと」は口喧嘩で済んでいるわけです」

「たとえばアメリカのラスベガスのカジノで遊んでいれば、一晩で一件や二件は殴りあいの喧嘩を見かけます。しかし、『相手を罵倒する単語』はたいてい一言や二言で、あとはすぐに暴力の応酬になってしまう。相手を罵倒する表現が少ないから、つい手が出るのかもしれません。そして、アメリカではそのもめごとを楽しむような雰囲気はありませんね。人々はできるだけ近寄らないようにして「あとはガードマンに任せましょう」となってしまう。このことには、アメリカとの対比においても、中国の特色が出ているのではないかと思っています。
何度も言いますが、中国の特色は、学問や文学、言葉によって世の中を治める文治政治にあるわけです」

中国の共産主義体制は、それまでの中国の歴史や文化をことごとく反転させるような方針を採用してきた。しかし、庶民のあいだでは旧来の文化が温存されてきたという。

「たとえば中国共産党は人民の『占い』や『おまじない』を禁止しました。共産主義は非科学性を否定するので、「占い」や「おまじない」などは一切やってはならないはずでしょう? 
しかし、庶民の住居を覗いてみれば、家の壁にはかならず何やら『おまじない』の効果のありそうなものがたくさん貼ってあって、キラキラと輝いている。この文化はなくなるはずがないと思いました」

「街なかでは占い師も商売を続けています。『占い』という看板は出していなくて、『命名』、つまり『生まれた子どもの名前をつけましょう』という看板だけを出しているわけです。しかし、入ってみたら旧態然たる占いがおこなわれている。これも『赤ん坊の名前については、教養のある人がいい名前をつけてあげたほうがいいのだから』と言えば誰も否定できないようになっているのです」

(第4回につづく)


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浅田次郎「中国論」(第4回)

G25月 7日(金) 18時50分配信 / 海外 - 中国
G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■乾隆帝という怪物

現代の中国を理解するためには、「清朝の文化に触れることがいちばんの近道なのかもしれません」と浅田氏は言う。清代においては隋の時代から一三〇〇年間も続いた科挙制度が続いていた。宦官という宮仕えも健在であった。そして清朝末期にかけては欧米列強による理不尽な侵略にさらされる。清朝末期は浅田氏にとって「作家である以前に歴史マニアである私が、最も興味を持つ時代」だという。

「清朝は北方の異民族である満洲族による征服王朝です。これが何といっても私には興味深かった。満洲族は漢民族とまるで違う言葉を喋っていて、農耕民族の漢民族とは決定的に違う狩猟民族としての文化を持っている。人数は少ないのに、たちまち中国全土を支配したわけです。そうしたパワーを面白いと思っていました。前々から、自分が中国を書くのであれば、清朝末期の状況を、できれば清朝中期の乾隆帝の時代にまで遡った大長編として書きたいと考えていたのです」

三年間かけて書かれた一八〇〇枚の大長編小説『蒼穹の昴』は、清朝末期の中国、西太后の時代に物語の幕を開ける。河北の曠野に生きる貧しい糞拾いの少年が、ある日、韃靼の老占星術師の口から、思いもかけぬ未来を予言される。

〈汝は遠からず都に上り、紫禁城の奥深くおわします帝のお側近くに仕えることとなろう。
やがて(中略)中華の財物のことごとくをその手中にからめ取るであろう。
そう、その皹〈あかぎれ〉た、凍瘡〈しもやけ〉に崩れ爛〈ただ〉れた、汝の掌のうちに〉

こうして長い物語ははじまる。浅田氏が前の発言で触れた清朝第六代の皇帝である乾隆帝(在位は一七三五年から一七九五年)は、モンゴル、東トルキスタン(新疆)、チベット、ネパールなどを征服、さらにビルマ(現ミャンマー)やベトナムにまで手を伸ばして領土を拡げた。『蒼穹の昴』の物語中において、西太后は夫(第九代皇帝である咸豊帝、在位は一八五〇年から一八六一年)の曾祖父である「乾隆帝の亡霊」に対して、幾度も国政の舵取りを相談することになる。

「乾隆帝に興味を持った理由は、彼には「怪物性」を感じるからです。この「怪物性」こそ、中華皇帝の本質ではないでしょうか。そもそも、乾隆帝の時代には気候が安定していたこともあり、前後の数十年間に「世界の王者」のような人物があちこちに生まれています。日本においても八代将軍である徳川吉宗の時代で、幕府の統治は安定していました」

清朝末期においては「乾隆帝が生前にこうおっしゃっていたから……」と言えば、無理難題でも押し通されてしまったこともあったようだ。今の中華人民共和国の領土よりさらに二割も広大な国土を確定し、巨大な帝国を築きあげた乾隆帝とはどんな人物だったのか。

「乾隆帝は、清朝末期には、ほとんど神様のように捉えられていたようです。また、乾隆帝の書いた筆跡を見てわかるのは、西太后の筆跡は完全に乾隆帝のコピーであるということ。『蒼穹の昴』における「西太后は乾隆帝を自分のロールモデルにしていた」という私の解釈は、そうした実物の筆跡がヒントになっています。つまり、西太后は何事においても乾隆帝の真似をしていたわけです」

「乾隆帝については面白いエピソードがあります。中国においては紫禁城でいろいろな名宝が継承されてきたわけですが、乾隆帝には『これは私の持ちものである』と、自分のハンコを押してしまうクセがありました。たとえば、乾隆帝よりも一四〇〇年も前に書かれた、王羲之の『蘭亭序』という書は、世界的な宝の中の宝と言えるものです。それに、誰はばかることもなく自分のハンコを押してしまう。『これを、私は読みました』というような書きこみまでしてしまう。乾隆帝は、そういうマーキングをあらゆる宝物に対してやってしまう人物なのです。これは乾隆帝の「怪物性」を象徴するエピソードだと思います。私は『この乾隆帝という人物の自負心の大きさは何だろう?』と、ますます興味を持つようになりました」

■宮崎市定教授と科挙制度

浅田氏が中国に興味を抱きはじめたのは、『蒼穹の昴』を書くより三〇年も前の中学生時代だったそうだ。

「そもそも、中国に興味を持つようになった端緒は、中学で教えられた漢詩にありました。それで次第に漢文に親しむようになって、当時、京都大学で現役の教授だった宮崎市定先生の著作に巡りあいました。宮崎先生の著作は本当にすばらしかった。昔の学者は文章がうまいものだから、もう小説を読むよりも面白くなってしまいました。いちばんはじめに自分で買った全集も、鴎外でも漱石でも谷崎でもなく『宮崎市定全集』でした。今に至るまで、私が文章的に最も影響を受けているのは宮崎市定先生かもしれません。読みやすく、ユーモアがあり、洒落ていて、虜になりましたから」

「宮崎先生の専門分野は近世、つまり明代と清代における科挙制度と官僚制度です。そのため、自然に中国の官僚制度に興味が生まれてきました。中国の官僚制度は屋根の上に屋根を架けることを無限に繰り返すうちにできあがった怪物のような組織です。その面白さに私はすっかりはまってしまいました。宮崎先生の著作を読みながら、呉敬梓の『儒林外史』という小説も読みました。これは、科挙についてのエピソード集として有名な作品です。そこで私はいかに科挙という試験が過酷なものだったのか知ったのです。その科挙の制度がつい最近まで続いていたところも面白かった。そのようにして、私は中国のなかでもとりわけ清朝に対して魅力を感じるようになっていったのです」

浅田氏によれば、歴史小説を書くときに史料ばかり集めて史料に埋もれてしまうのは最悪のことだという。史料の面白味だけに惹かれているのならば、フィクションを書かないで歴史研究をすればいいからだ。浅田氏は『蒼穹の昴』で、まるで実際に体験したかのように、科挙の試験の様子を活写した。科挙の試験問題や答案に書かれる漢詩まですべて浅田氏のオリジナルであるという。

「科挙の試験や答案まで自分で書いてしまうのは面白かったですね。あれは『楽しみ』でやっているんです。自分にとっては、あくまで競馬や麻雀と同じレベルの娯楽。小説家である私が、中国を書くときに心がけているのは『好きでやっているのだから』と目一杯楽しんで中国の文化に没入してしまうことなのです」

「科挙をリアルに書けたのは、私が歴史家ではなく趣味が高じた中国オタクだからです。科挙の答案も作成するし、状元(科挙に首席で合格した人物のこと)の答案も、自分でオリジナルの漢詩を作りました。これも、それほど上等な知識があるわけではありません。むしろオタク的に面白がって書いているだけです。
科挙を専門に研究なさっている学者さんならたくさんいるだろうけど、まさか、自分で答案を作ろうなんて人はいないでしょう。しかし、中国オタクとしては、やはり自分で科挙の問題に挑戦してみたくなるものなのです」

(第5回につづく)
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儒教あれこれ

『歴史の交差路にて』(講談社文庫)

(84ページ)
中国の場合のおもしろさは、近代精神みたいに

(181ページ) 社会を固定化する儒教
(182ページ) 
陳: 儒教はやっぱり近代化の障害物ですよ。 モラルとしてだけならいいのですが、秩序重視のあまり、身動きがとれないほど体制を固定化してしまう傾向があるんです。 中国でも太平天国の乱は反儒教闘争ですね。
……
司馬: 話がえらく大げさな古代に戻りますが、国教としての儒教の始まりは、漢の董仲舒 (とうちゅうじょ) と言われていますね。漢の武帝が採用してそれを国教化していく。 もしあれをしなかったら、中国の形而上・形而下的好奇心は、戦国期以上に沸騰していたでしょう。 つまり漢の武帝のときが一つの選択の時代だったのです。
 春秋・戦国のころからずっと起こってきた人間の好奇心が、漢の武帝のころに爆発的になってきている。 僕の素朴唯物論で言えば、その当時、あり余るほど鉄器生産はできている。 その鉄を利用して諸発明をしかねない。 どういう世の中になるか見当もつかない面白い局面に歴史がさしかかっていた。
 現在我々は将来を見通せませんでしょう。 いろんな科学技術が進歩して、将来を見通せなくて茫然としていますね。 漢の武帝およびその時代の政治家たちは、今の我々よりももっと地鳴りするような世間の好奇心に茫然としていたと思う。
 そのときに儒教を採用して、いにしえを尊しとするということでかちっとやれば、何とかこの社会は流動を食い止められて固体になるんじゃないか。 固体にするには儒教が一番いいということが、大もとにあったんじゃないかと思うんです。


『韓のくに紀行』(朝日文庫)
(124ページ)
(125ページ) 
 儒教というのは、日本にあっては紙で木版印刷された書物というかたちをとりつづけてきたが、中国ではもっとおそるべまものなのである。 漢以来、統治の原理であり、多分に体制そのものであり、これを統治されるものからいえば人間関係の唯一の原則で、人間であるかぎりこれ以外の習俗はない。
……
 例とはつまり形式のことで、この形式がいかに煩瑣であれ、これを命がけでまもっってこそ人間と社会が成立するというのが、儒教の祖とされる孔子の考え方であった。
 逆にいえば儒教国家というものは自然のままの人間というものをみとめない。 人間は秩序原理 (礼) でもって飼い馴らしてはじめて人間になる。 そうなっている。
 たとえば野馬は馬ではなく、それをとらえてきて一室のかこいのなかに入れ、非自然的な調教法 (礼) で馴化 (じゅんか) させてはじめて馬になる。 人間もおなじだ、という思想である。
 原理によってぼう大な数の人間を飼い馴らすというのが中国古来の国家のしごとであり、専制皇帝もまたこの飼い馴らしから自由ではなく、みずから礼教の範をたれるというのが人君たるものの理想とされている。 このことは日本人にはわかりにくいいが、キリスト教という絶対的な原理でもって、本来自然物にすぎないと規定された人間を、国家的に飼い馴らしてきた歴史をもつ西洋人ならばよく理解できるのにちがいない。 ただ西洋の場合は神父と官僚は職能として分離されているが、中国の官僚は儒教の牧師であるとともに行政者であるという徹底した点でわずかにちがっていた。
  
(126ページ) 
 この点、こういう歴史的経験をもたなかった日本人にはわからない。 毛沢東による新中国も儒教原理を他の原理にかえただけで、 「人間は国家が一原理をもって馴化しつくしてはじめて社会的存在としての人間になりうる」 という基礎的な体質をすこしもかえていないのである。
 これを、そういう歴史をもたなかった日本人が笑うべきではない。 むしろそのような人間社会の伝統をもちつづけてきた民族――中国人だけでなくロシア人やヨーロッパ人――にとって、文明とはそういうものであり、日本人社会などは文明の概念にあてはまらないのではないか。 要するに倭人という印象は、
「あてはまらないやつ」
という感じとして、日本の外界には基本的にあったし、いまもあるのではないか。

(136ページ)
 朝鮮から捕虜がきていた。
 姜 (きょうこう) という高官で、李朝は中国風の科挙の制度 (高等文官試験) を採用していたから、朝鮮では高官ということはすでに学者であるということであり、姜はとくにそうであった。
 姜の行動は比較的自由で、伏見城下や京都などを歩き、帰国後の姜自身の文章によれば 「小臣、倭京ニ来リテヨリ、倭中ノ虚実ヲ得ント欲ス」 とあるから、できるだけ人に会って倭とは何ぞやということをさぐろうとしたようである。 もっとも姜は学者であっても、その文章を見るに、 「虚実ヲ得ン」 と意気ごみながらも、現実直視能力というものは残念ながらあまりない。 このことは姜だけでなく、概して朝鮮知識人の通弊であるようである

(157ページ)
 両班 (やんぱん) 日本風に強いて翻訳すれば士族階級ということになるが、厳密には村落貴族とも考えられるし、ときには大官に付属する特権的家柄ということにもなり、いずれにしても常民階級や奴婢階級の上に立ち、李朝時代は言葉から生活規律まで常民とはちがっていた。 末松保和氏の定義を借用すると、
「朝鮮、高麗および李朝の官僚組織、または社会的な特権身分階級」
 ということになる。

(158ページ)
 李朝のころ、ソウルにおける両班とはつまり大官たちである。 在郷の両班は日本でいう郷士のようなものだが、郷士よりも権威がある。 特権階級であるとともに、李朝のころは朝鮮人民を儒教で飼い馴らしてしまうための 「儒教の神父」 のような役割をもっていたということができるのではないか。
ここで考えねばならないことは、儒教は中国大陸の漢民族にとっては遠い文字以前の上古から血液化された当然の原理であったに相違ないということである。 孔子が出てきてそれを思想化し規範化したが、もともと儒教的原理そのものは漢民族の古代社会に原型として存在したに相違ない。 このため漢民族にとってはこの原理なり体制なり作法なりは無理のないものであったにちがいないが、半島の朝鮮民族は、漢民族とは言語も人種も歴史もまったくちがっている民族なのである。 李朝五百年の凄さは、その民族を、他民族の原理を導入することによって飼いならしてしまったところにある。 朝鮮人のもつ観念先行癖――事実認識の冷静さよりも観念で昂揚すること――やそれがための空論好きという傾向は、民族の固有の性格などというようなものでなく、李朝五百年の歴史がこの民族に対してほどこした大無理というものを考えなければ理解しがたいようにおもえる。
 そのゆがめ役をつとめたのが、在郷の両班階級であるように思える。 儒教原理の本場である中国では、むろんこういう特権階級はなかった。 その必要もなかった。 李朝にあっては両班階級の出身者でなければ大官への関門である科挙の試験を受ける資格がなかったが、中国では異民族支配のほんの一時期はのぞき、たれでも受験することができた。
 が、李氏朝鮮では、両班を必要とした。 人民を儒教へ儒教へと飼いならしてゆく調教師として、在郷の両班は必要であったのであろう。 その意味では日本の武士階級とはまったくちがうものである。
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