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朝鮮戦争 上 *工事中*

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』  
デイヴィド・ハルバースタム/山田耕介・山田侑平 訳 (文藝春秋)

(95ページ) 「地勢的要点朝鮮
マッカーサーが韓国に関心がなかったとしても、この不運な国への姿勢はその時代のアメリカ人としては典型的すぎるほど典型的といってよかった。 朝鮮はアメリカの政治プロセスにもアメリカ人の心情にも結びつくところがなかった。 中国は長くアメリカ人の心を引きつけてきた。 その多くが貧しく、もがき苦しむ中国人に、妙なことだが、深い家父長的な温情を向けた。 日本は賞賛されたり、恐れられたりした。 いっぽう、朝鮮はアメリカ人の心を引きつけず、関心さえ引かなかった。 ホーマー・ハルバートという宣教師が1906年にこう書き記している。 「朝鮮人はあしざまに中傷されることは多いが、高く評価されることはめったにない。 いっぽうでは人口の面で中国の陰に隠れ、他方では才気の点で日本に見劣りする。 前者のようなよい商人゛はなく、後者のようなよい戦士でもない。 だが、一緒に暮らすには東洋でこれほどすばらしく楽しい人々はいない。 かれらのさまざまな欠点は、いたるところに広がるわれわれの無知の結果としてのたとえば流れのようなものであり、機会の改善はかれらの境遇にすみやかな向上をもたらすだろう」。


(157ページ) [最初の植民地戦争
大統領はウィリアム・マッキンリーだった。 オハイオ州出身の共和党員で、アメリカが太平洋における帝国主義的大国として新たな役割に突き進むことに複雑な矛盾する感情を抱いていた。
……
フィリピンで現地の民族的指導者らが求めたのはただ一つ、スペイン帝国主義者らの退去だった。 民族主義者は当初、アメリカの支援を歓迎したが、アメリカの意図はアメリカの利益第一、フィリピンの利益第二であることに気づく。  

(158ページ)
 それはアメリカ初の本物の植民地経験であり、幸せな経験ではなかった。アメリカ軍とフィリピン反乱軍が最初に銃火を交えたのは、1899年2月のことらしい。 アメリカの力と野心の点で、アメリカがフィリピンで実施した残忍な反乱鎮圧作戦は次世紀に発生する大半の事件の先駆けになるものだった。
 
(158ページ)
 アメリカ軍はフィリピン群島にキューバの戦争の付録のつもりでほとんど気楽に侵攻した。 ……後で分かったことだが、フィリピンのスペイン植民地は取ってくださいといわぬばかりの存在だった。 そこでアメリカが取ったのだった。
 
 マッキンリー大統領はフィリピンが特別欲しかったわけではなかった。 かれは 「このいまいましい島々が二千マイル以内のどこにあるのか知らなかった」 とある友人に漏らしている。
……
 アメリカが新たに手に入れた経済力を世界に誇示したい国内の圧力には独自の勢いがあった。
…… 
 ワシントン・ポスト紙はこう指摘した。 「力の自覚という新しい意識がわれわれに芽生えてきたようだ。 それとともに新たな貪欲、すなわち、われわれの……野心、利害、領土への飢え、プライド、単なる戦いの喜びを顕示する欲望など、それがなんであれ、われわれは新しい知覚に活気づいている……帝国の味はジャングルの中の血の味のように人々の口中にある。 それを帝国主義的政策という」。 
(159ページ)
 アメリカはフィリピン経営の当初は、スペインの植民地政府に挑戦しスペイン後の独立を目指して戦った反乱勢力の同盟者――ほとんど戦友――だった。 アメリカは本来、非植民地国家だとかれらに保証していた。 だが、時の経過とともに、アメリカは結局は残忍で醜い弾圧戦争に手を染めてしまう。 ここで二つの強いアメリカの本能が顕在化する。 つまり、白人キリスト教徒の責務として土着の民を文明化するためアメリカはこの群島に植民者的責任を負うべきだとする伝道者的衝動と、反乱ゲリラを ”黒んぼ” とか ”グーグーズ” (東洋人の蔑称) と見下す毒性の強い人種差別である。  

(161ページ) 
 暴力はエスカレートしたばかりか、次第に凶暴になっていった。 アメリカ軍の通称 "大音声のジェイクス" ことジェイコブ・スミス准将は部下に「捕虜はいらない。 殺して焼いてしまえ。 おまえたちが殺せば殺すほど、焼けば焼くほど、ゆまえたちはわしを喜ばせてくけるのだ。 実戦で武器を持てる捕虜は全員殺せ」 と命じた。 部下の一人が年齢制限を設けるよう求めたところ、 「十歳だ」 とスミスはいった。 「十歳ですか。 十歳の子がアメリカに刃向かえますか?」 と部下は聞き返した。 「そうだ」 とスミスは答えた。 戦争は三年半つづきアメリカ本国では日に日に人気がなくなっていった。 戦争の終結を促進させたのは1901年、ファンストン将軍による大胆な急襲とアギナルド反乱軍司令官の逮捕だった。 結局、フィリピンで4200人のアメリカ兵が死に、2800人が負傷した。 この戦闘でフィリピン側は2万人の兵士、25万人もの民間人が死亡した。


(282ページ)
ケナンにとって力とは (皮肉にも、スターリンにとっても同様に) 必要があればだちに軍事力に転用できる工業力のことである。 わが国に大いに影響する唯一の世界は工業諸大国の世界である


(323ページ) [宣教師たちの中国] 
 多くのアメリカ人の心の中に存在した中国は、アメリカとアメリカ人を愛し、何よりもアメリカ人のようでありたいと願う礼儀正しい従順な農民たちが満ちあふれる、幻想の中の国だった。 普通の農民が 

(ページ)

(390ページ) 
 だか、もちろん送られた先は韓国だった。 彼はこの国がすぐに嫌いになった。 その小さくない理由は到るところに漂ってくる臭気だった。 即席の肥料にする人間の排泄物のニオイで、かれだけではなく多数の米兵を悩ませた。 韓国の国民がとりわけ好意的ではないのも嫌いな理由だった。 韓国人は植民地支配下の歳月を恨み、アメリカ軍が象徴する将来に不安を感じていた。 ほかの米兵は日本がどれほど楽しかったか、敗北し勝者の模倣に熱心な日本人がどんなに友好的になっているかをビーラーに語って聞かせた。 


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