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;『日本人と中国人』 第四章 ことだま

陳舜臣 『日本人と中国人』 (集英社文庫)

第四章 ことだま――”同文同種”と思いこむことの危険・・・・・・87頁
[道しるべ]・・・・・・88頁
  ・ 日本にとって中国は ”打出 (うちで) での小槌 (こづち)”  
  ・ ”遁世” さえパターン化した日本
  ・ ”道しるべ” を建てた民族と、それに従った民族
  ・ ”以心伝心” とは過程のない理念

[ちょっとぼかす]・・・・・・96頁
  ・ 日本人の短期は日本語が原因
  ・ 結果がわからなければしゃべれない日本語
  ・ 日本語はあまりにも明晰すぎる。
  ・ 日本人の ”笑い” と ”語尾の省略” は同じ精神の姿勢

[同文同種に甘えるな]・・・・・・106頁
  ・ 中国と日本は ”同文同種” ではない
  ・ ”殺” とは ”殺す” ことではない
  ・ なぜ日本語に ”殺” の用字がすくないのか
  ・ 中国語の ”鬼才” は特定の個人の呼称
  ・ 両国語のニュアンスについて理解を深めよう
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浅田次郎「中国論」(第11回)

浅田次郎「中国論」(第11回)
G26月 8日(火) 16時46分配信 / 海外 - 中国

G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■漢字の不思議な力

浅田氏は、中学二年生のとき、国語の先生が漢詩を読み下し文で読んだ瞬間に「なんだ、この美しい言葉は!」と思ったという。外国語なのに、言語に返り点をつけて日本の構文に直して読み下したら、非常に美しい文章になり、そのうえ、言わんとしている内容まできちんと伝わってくる。そうした言葉の変換の不思議さにどんどん惹かれていったという。

「そもそも、英語の詩を日本語に翻訳しても、こうは完全な対応関係にはならないわけです。ところが、漢詩と日本語の読み下し文のあいだにおいては、発音のちがいがあるだけで、内容の変化やましてや誤訳は発生しません。まぁ、稀に格好良く読み過ぎてしまう先生もいらっしゃいますが、その格好良く読み過ぎた文も味があってすばらしい」

「漢詩においては現代に沿った新訳のほうがいいのかといったら、そうとも限りません。むしろ、漢籍の教養がにじみ出ている昔の老大家の読み下しにこそ愛着を覚えてしまいます。
漢字という媒体を通せば、中国人と日本人というちがう言葉を話している国民同士が、まったく心を一にすることができて、美的情緒の面までも心を一にすることができる。その不思議さに、私は心を揺り動かされたのです」

中国文学を読みこんで中国を理解してきた浅田氏。その理解の過程には「漢詩を書き写す」こともあった。

「中国の文学、ことに漢詩の場合は自分で書き写すと内容がよく伝わってきます。漢字には、一文字一文字書いてはじめてわかる不思議な力があるのです。ですから、いまでも漢詩の書き写しは趣味ですね。私はかつては日本語の文章もよく書き写していました。それは別に勉強のためではありません。良い文章を深く味わうためには、自分で書き写してみることが一番だからです」

「漢字に対する私の考え方は、白川静先生から大きな影響を受けました。漢字文化の研究において、あらゆる学派に属さずに『白川学』を作りあげた底力には感心させられます。たしかに白川先生の説には、解釈の域を超えて詭弁を感ずることもあります。しかし、それはそれとしても、私は漢字が持つ一字一字の重さを白川先生から教わりました」

「小説を書いているとき、文章の流れのなかで必ず使うべき漢字を見つけることがあります。たとえ読者が知らない難しい漢字でも、文章の流れのなかでピッタリはまる漢字がある。これは、漢字のルーツが象形文字であるということの証拠だろうと思っています」

(第12回につづく)
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浅田次郎「中国論」(第10回)

浅田次郎「中国論」(第10回)
G26月 3日(木) 11時14分配信 / 海外 - 中国

G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■張作霖研究家との出会い

張作霖の長男・張学良については『中原の虹』執筆過程における秘話もある。

「張学良は二〇〇一年まで生きていて、生前NHKの番組でインタビューも受けています。その張学良の番組を通じて不思議な縁がありました。以前、NHKの番組に出演したことがきっかけで、張学良のインタビュー番組を作ったディレクターとその奥様にお目にかかったのです。話をしてみたら、ディレクターの奥様は富山大学で張作霖を研究している澁谷由里先生だというではありませんか。これは天の助けと思って、当時執筆中の『中原の虹』の校閲を澁谷先生にお願いしました」

「その助けがなければ小説のなかで実現できなかったことはたくさんありました。たとえば、満洲語の表現について、その富山大学の先生の恩師である京都大学の先生の助言をいただきました。その方はもう相当のご高齢なのだけれども満洲語を専門にされている方で、もしかしたら日本で最後の満洲語研究家かもしれません。その先生に満洲語の表現や発音を教えていただきました。そうした助けもあって『中原の虹』は完成したのです」

『中原の虹』を発表したあと、実際に昔の満洲を知っている人からの手紙がたくさん届いたという。たとえば、「私は現在九〇歳で、もとは満鉄の社員でした。張作霖の『打聴、満洲風』という言葉にしびれました」といった感想がとてもうれしかったという。

「つまり、実際の満洲を知る人たちにとってもリアルな満洲の風や大地の一端を描けていたのだと思う。当時の満洲に渡った人たちは、何かしらの青雲の志を持っていた方が多い。そういう気持ちを持っていた人たちの心に『打聴、満洲風』という言葉が響いたのだとすれば、こんなにうれしいことはありません」

(第11回につづく)
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浅田次郎「中国論」(第9回)

浅田次郎「中国論」(第9回)
G25月31日(月) 16時32分配信 / 海外 - 中国

G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介

■宋教仁と国民選挙

『中原の虹』では、冒頭で触れた国民選挙を実現させようとした政治家、宋教仁の演説シーンをいかに描くか、苦労したという。宋教仁の演説はこう結ばれている。

〈そのほかの名誉は何もいらない。私が勲とするところは、ひとえに民の平安である。
敬愛する中華人民諸君!
どうかこの歓呼の声を、私に対してではなく、祖国の未来に向けてほしい。
この地球のまんなかに咲く、大きな華に。けっして枯れることもしおれることもない、中華という大輪の華に。〉

「宋教仁は実務家だから勤勉に働いたけれど、書きものはあまり残していなかった。だから宋教仁の演説がどのようなものであったのか、実はわからないのです。上海の駅頭で演説をしたあとで殺されたのは確かなのですけど。どうすれば彼の演説のエッセンスを表現できるのか。最終的には、彼と同郷で彼と最も近い足跡を辿った人は誰かと考えました。すると、うってつけの人を発見しました。陳天華という宋教仁の同志です。この人は宋教仁と世代が同じで同じ時期に日本に留学していて、同じ会派に属していた。しかも同郷でもあるから、思想もかなり近いだろうと読みました。この陳天華は演説記録を残していたんです。彼の演説の草稿をベースにして、これに宋教仁らしい思想をミックスさせて彼の演説を書きました」

『中原の虹』は、親も家もない流民の子、張作霖があるとき老占い師に「汝、満洲の王者たれ」との予言を受けるところから物語がはじまる。天命を持つものだけが手にすることのできる龍玉を、清朝の太祖ヌルハチの墓で手に入れた張作霖は、予言通り馬賊の長としてめきめきと頭角をあらわしてゆく。一連の取材を通じて浅田氏が馬賊の子分のなかで印象に残っているのは、どちらも実在の人物である張景恵(好大人)と馬占山(秀芳)だった。

「馬賊の格なら、実は張作霖より張景恵のほうが上だった。けれども張作霖は、総攬把の地位を張景恵から譲られる。そのとき張景恵は『器はこいつのほうが上だろう』と思ったのでしょう。部下は張景恵のほうがずっと多かったけれども、求心力があるのは張作霖だという判断です。張作霖の子分になった張景恵はのちに満洲国の国務総理になる。そして日本の敗戦後に捕まって獄死しました。撫順の収容所で彼が死んだ部屋を見ましたが、感慨あらたなるものがありましたね。実は、彼の息子がその牢獄の看守なんです。偶然、撫順の看守をやっていて、近くの奉天から連れてこられた父親を看取ることになるわけです。まさに事実は小説よりも奇なりですね」

■馬占山は神出鬼没

馬占山は『中原の虹』のなかでは先駆けを務める華のある馬賊だ。『中原の虹』では貧しさから地主と関係を持った妻を許せず、妊娠を知りながら捨てたことを悔いている。あるとき討伐に向かった匪賊のなかにその妻を見つけたが、敵として自ら撃ち殺したという人物である。

「馬占山は日本軍に最後まで徹底抗戦します。日本でも、『馬占山征伐』というニュースが何回も臨時で出されたほどですから。『馬占山死亡』という記事も何度も報じられています。ところが、そのたびに『やっぱり馬占山は生きていた』と訂正記事が出る。馬占山は神出鬼没、不死身の将軍だったのです」

「実は日中戦争当時、日本では馬占山ごっこっていうのが流行ったらしい。その遊びの内容はわからないんです。少し調べてみたのですが、わかりませんでした。おそらく、神出鬼没の鬼であるという要素がどこかに入った遊びなのでしょう」

『中原の虹』を発表する前、浅田氏は中国人小説家たちに「次は張作霖を書く」と伝えたことがあるという。

「上海の作家協会で中国人小説家たちと話をしているときに『中原の虹』の構想を伝えたら、満場一致で『張作霖を小説のヒーローとして書けるはずがないじゃないか』という反応でした。なかには爆笑した人もいたほどです。こちらとしては、そうした反応を見て心のなかでガッツポーズをきめました。これほど過小評価されている人物なら、誰もが驚くような小説を書けるに違いないと思ったからです」

(第10回につづく)
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浅田次郎「中国論」(第8回)

浅田次郎「中国論」(第8回)
G25月28日(金) 11時15分配信 / 海外 - 中国
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G2 Vol.3誌面より
取材・構成=木村俊介


■「未知の大地」の風を感じて

『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』を書きあげた浅田氏は、続編である『中原の虹』を中国東北部での綿密な取材を重ねて執筆していった。『蒼穹の昴』執筆当時、まだ一度も中国に行ったことがなかった浅田氏にとって、かつて満洲と呼ばれた中国東北部への旅は積年の夢だった。

「『蒼穹の昴』は文学書や歴史書や史料を中心に想像して描いた世界でした。はじめて中国に行ったのは一九九七年で、『蒼穹の昴』刊行の翌年。当時から『中原の虹』の構想はあったので、その取材のため万里の長城に出かけたわけです。万里の長城に立って「ここから向こうが満洲なのか」と思ったときの感動は、よく覚えています。『中原の虹』の主人公である張作霖が馬賊たちと共に万里の長城を越えてきた、その大地のイメージがまざまざと頭のなかに浮かびました。理屈抜きで、これが満洲なんだと体験できたのです」

現在の瀋陽(旧奉天)は大都会だが、一九九七年に訪れた頃はまだ「田舎の風情」が感じられたという。浅田氏の中国東北部に対する第一印象は「気候のいいところだなぁ」ということ。夏に出かけたので、空気がサラッとしていて非常に過ごしやすく、夏の北海道のようだったという。

「中国東北部がどんなに寒くても、氷に閉ざされているのはせいぜい数ヵ月です。夏の気候は本当に素晴らしい。だから、直感で悪い土地ではないなと思いました。そして土の色を見てみたら、北京周辺の河北省に比べてずっと土地が肥えているとわかったのです」

満洲の森林と草原を前にして、「豊かな土地だ」と感じた浅田氏は、かつて日本がこの土地に固執した理由もわかるような気がしたそうだ。もっと冷たく荒れ果てたところかと想像していたが、とても魅力的な土地だったのだ。

「『中原の虹』の取材では何度も北京や瀋陽に行ったので、とてもリアリズムのある小説になったと思います。満洲のさまざまな季節をこの目で見たからこそ、『中原の虹』で張作霖が『東三省をわがものとするつもりか』と問われたときに『打聴、満洲風(満洲の風に聴け)』と言うシーンを書けた。あれは満洲の風を知っていなければ書けない言葉ですから」

張作霖は満洲の風を愛しており、自分が生まれ育った土地を愛している。だから「自分の行く末のことなんて満洲の風に聴けばよかろう」と言うのだ。

「中国の共産主義というのは、ソ連からの影響だけではなくて、中国内部のいろいろな個人の思想の影響を受けたものではないでしょうか。中国の共産主義には、たとえば清代末期に康有為が唱えた平等主義・大同思想の影響を明らかに受けているところがあります。同時に張作霖のものの考えかたも、中国共産主義に何かしら影響をおよぼしているのではないでしょうか。馬賊出身で、あれだけの貧乏人でありながら国土の四分の一を支配したというのは、中国の歴史のなかでは異例です。張作霖の貧乏人根性は、中国共産主義にどこかで影響を与えたのではないかと想像しています」

「張作霖は五三歳で死ぬまで、けっして貧乏人根性を忘れませんでした。満洲では張作霖にまつわる具体的なエピソードを耳にしました。たとえば、こんな話です。ふつう、リアカーというのは自転車の後ろにつけるものでしょう。ところが、瀋陽の街では、人々がリアカーを自転車の前につけて押している。不思議に思って私が地元の人に『なんでリアカーを押しているの?』と質問したら、『実はこれは張作霖が“こうしたほうがいい”と発案したんだ』と言う。『押していたら、自分の目で荷物が見えているから事故が少なくて、泥棒に盗られにくいぞ』と。そんな形で張作霖の政治は現在も生きている。そういう発想って貧乏人でなければ思いつかないでしょう? だから、張作霖の思想は、のちの体制にも影響を与えたのではないかと思っているのです」

近代的な軍事教育を受けていない張作霖が戦争を指揮することは、近代の軍事理論の常識を超えている。『中原の虹』のなかでは、日露戦争以降、つまり日本の軍事教育が完成されたあとの日本軍人は張作霖を見て「無教養な人物に一個師団を率いることは不可能」と侮る。しかし、張作霖は簡単に統率してしまった。なぜ張作霖はそんなことができたのか。

「馬賊の場合、指揮する馬の数は数十頭までが普通でしょう。あとは子分がいても見えないのだから『戦争』の範疇に入らない。つまり『喧嘩』の範囲に留まっていた連中を率いて『戦争』を指揮してしまったのが張作霖なのです。なぜそんなことができたのだろうと不思議に思います。そもそも知識がないのだから、軍事的な才能があったとは思えません。やはり求心力や神がかり的なところがあったから実現できたのでしょう」

「張作霖は、空に投げたコインを撃ちおとすほどの神業的なピストルの達人でした。若い時分から馬賊の頭目として数えきれないぐらいの人を殺してきた逸話も残されています。いくら人間の命の価値が安かったとはいえ、ここまで人殺しに精を出し続けてきた男が、なぜ国民に人気があったのか。その魅力を想像で探っていくプロセスは興味深かったです。小説のなかでは、私は張作霖にこんなセリフを語らせています。『百万も千万も殺してやるさ。百年ののちに十億の民が腹いっぱいに食って、天寿を全うできればそれでよかろう』。これは想像の言葉ですが、張作霖の思想ではないかと思っています」

(第9回につづく)
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